再婚と里親の間3 どちらが先かを決めると、どちらかを後回しにすることになる。 後回しにできる話ではなかった。

任務報告

奈緒さんと会ったのは、金曜日の夜だった。

遥は同級生の家に泊まりに行っていた。
珍しいことだった。
遥が友達の家に泊まるのは、この一年で二度目だった。
奈緒さんと二人で会える夜が、自然にできた。
自然にできたことが、少し後ろめたかった。
後ろめたい理由を、うまく言えなかった。

駅の近くの、小さな居酒屋だった。

カウンターに二人で座った。
奈緒さんがビールを頼んだ。
私も同じものを頼んだ。
グラスが来た。
二人で飲んだ。
奈緒さんが「遥ちゃん、お泊まりなんだね」と言った。
「珍しいだろ」と私は言った。
奈緒さんが「友達がいるんだね」と言った。
笑った。
私も笑った。

笑いながら、遥の夜泣きを思い出した。

しばらく、仕事の話をした。

奈緒さんが担当している生徒のこと。
私が受け持っているクラスのこと。
話しやすい話題だった。
二人とも学校に勤めていた。
共通の話題が、自然に出てきた。
奈緒さんの話し方は、聞きやすかった。
声が穏やかで、言葉を選ぶ人だった。

料理が来た。

枝豆と、だし巻き卵と、焼き鳥が並んだ。
奈緒さんが「食べて」と言った。
私は箸を取った。
だし巻き卵を食べた。
柔らかかった。
出汁の味がした。
奈緒さんも食べた。
しばらく、食べながら話した。

「遥ちゃん、少しずつ慣れてくれるといいね」と奈緒さんが言った。

グラスを持ったまま、言った。
私を見ていた。

「そうだな」と私は言った。

奈緒さんが少し間を置いた。

「私、何か失礼なことしたかな」と言った。

グラスを置いた。
カウンターに目を落としながら言った。
私を見なかった。
聞きたくて聞いたのか、聞かずにいられなくて聞いたのか、わからなかった。
でもその言葉の中に、先週の夕飯からずっと抱えていたものがあった。

「そんなことない」と私は言った。

「料理、口に合わなかったかな」
「うまかったと思う」
「話しかけ方、変だったかな」
「そんなことない」
奈緒さんが「そっか」と言った。
でも顔が、晴れなかった。
私にはわかった。
そんなことない、という言葉が、答えになっていないことが、奈緒さんにはわかっていた。
わかっていて、これ以上聞かなかった。

帰り道、一人で歩いた。

奈緒さんとは駅で別れた。
奈緒さんが「また連絡する」と言った。
私は「ああ」と言った。
改札を入る奈緒さんの背中を見た。
小さくなって、消えた。

私は歩いた。

夜の道だった。
六月だから、風が生ぬるかった。
街灯が続いていた。
人が少なかった。
歩きながら、奈緒さんは悪くない、と思った。

何度思っても、遥の夜泣きが頭から消えなかった。

声を殺して泣いていた音。
廊下に立って、ノックできなかった夜。
翌朝、目が腫れていた遥の横顔。
それが、歩くたびに浮かんだ。

奈緒さんに、言えなかった。

遥が泣いていたことを。
廊下でノックできなかったことを。
翌朝、二人とも何も言わなかったことを。
全部、言えなかった。
言えば、奈緒さんが傷つく。
傷ついた奈緒さんが、遥との距離をもっと慎重に測り始める。
その慎重さが、遥にはもっと伝わらない。

わかっていた。

悪循環だとわかっていた。
でも言えなかった。

交差点で、信号が赤になった。

止まった。
車が通った。
ヘッドライトが、道を照らした。
通り過ぎた。
暗くなった。
信号が青になった。
歩いた。

今夜、私は誰に対しても正直になれなかった。

奈緒さんには「そんなことない」と言った。
遥には何も言えていない。
自分に対しても、何が正しいのかを決められずにいる。
体育教師として、生徒に正直でいることを教えてきた。
正直に話せ、と何度も言ってきた。
自分がいちばん、できていなかった。

アパートに帰った。

遥はいなかった。
部屋が静かだった。
いつもは遥がいる静けさと、いない静けさが、違った。
遥がいない静けさは、広かった。
広くて、少し寒かった。

私はソファに座った。

テレビをつけなかった。
静かな部屋に、一人でいた。
奈緒さんのこと、遥のこと、順番に考えようとした。
でも順番がつかなかった。
どちらが先かを決めると、どちらかを後回しにすることになる。
後回しにできる話ではなかった。

どちらも、大事だった。

どちらも大事だから、動けなかった。
考えるより動くはずの自分が、この問題だけは動けなかった。
ソファに座ったまま、夜が深くなった。

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