里親として康夫さんが私にしてくれたことを、言葉で数えようとすると、うまくいかない。
週末は、木工をして過ごすことが多い。
道具は康夫さんのものを幸子さんからもらった。
康夫さんが三年前に亡くなったあと、幸子さんが「誠司が使ってくれるなら一番いい」と言って、工具箱ごと譲ってくれた。
鑿も鉋も、長年使い込まれて手に馴染んだ道具だった。
私の手には少し大きかったが、今はもう慣れた。
その日の午後、私は六畳の部屋の隅に作業スペースを作って、木を削り始めた。
作るものは決まっていなかった。
ただ、手を動かしたかった。
こういうときがある。
何かを考えたくないわけではないのに、頭より先に手を動かしたい夜が。
昨日の松田の言葉が、まだどこかに引っかかっていた。
鉋を握ると、康夫さんの手を思い出す。
大きくて、節くれだって、傷だらけの手だった。
長年大工をしていた手で、指の関節が太く、爪の際にいつも木くずが残っていた。
私の手とは全然違う。
私の手は細くて、営業職らしく荒れてもいない。
並べたら、誰も同じ人間から受け継いだとは思わないだろう。
実際、受け継いでいない。
血はつながっていない。
でも、鉋の角度だけは同じになっていた。
いつからそうなったのか、わからない。
気がついたら、康夫さんと同じ角度で鉋を持っていた。
教わった記憶はない。
ただ、隣で見ていた。
見ているうちに、体が覚えた。
二年ほど前、幸子さんに電話したとき「誠司、康夫さんに似てきたね」と言われたことがある。
「どこがですか」と聞いたら、「なんとなく」と笑われた。
なんとなく、という答えが、妙に腑に落ちた。
似ているというのは、そういうものなのかもしれない。
説明できるものではなく、なんとなく、という感覚の中にあるものなのかもしれない。
康夫さんは、私を一度も「息子」と呼ばなかった。
私も「お父さん」と呼んだことはなかった。
康夫さん、と呼んでいた。
それが自然だった。
距離があったわけではない。
ただ、私たちの間にはずっと、言葉より先に物があった。
木片、道具、削りかす。
言葉の代わりに、何かを手渡し合っていた。
里親として康夫さんが私にしてくれたことを、言葉で数えようとすると、うまくいかない。
食事をくれた、学校に行かせてくれた、そういうことは確かだ。
でも私が覚えているのは、縁側での沈黙とか、工具箱を開けるときの音とか、木のにおいとか、そういうことばかりだった。
康夫さんへの気持ちを、私は一度も「親への感情」と整理したことがなかった。
感謝はある。
尊敬もある。
康夫さんが亡くなったとき、私は葬儀で泣いた。
自分でも驚くくらい、泣いた。
でも「父親を亡くした」という感覚だったかといえば、わからない。
もっと別の何かを失った感覚だった。
言葉にならない何かを。
なぜ「父親だった」と言い切ることを避けてきたのか、自分でもよくわからない。
血がつながっていないからか。
制度の上では里親と里子だからか。
それとも、康夫さん自身が「父親」という役割を前に出さない人だったからか。
たぶんそのどれもが少しずつ、正しい気がする。
鉋を止めて、削りかすを払った。
手のひらを見た。
細くて、傷のない、私の手だった。
でも鉋の持ち方だけは、康夫さんと同じだった。
それがおかしくて、少し笑った。
声には出なかったが、笑った。
似ているとはどういうことか。
血ではなく、時間が作るものが、確かにある気がした。
そう思うことが正しいのかどうか、わからなかった。
でも少なくとも、その日の午後の私には、そう思えた。
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