私が里親として清子さんのもとに預けられたのは、私が八歳のときだった

任務報告

村上清子さんが亡くなって、三週間が経った。

享年七十四歳。

元小学校の教員で、定年後は地域の読み聞かせボランティアを続けていたと、葬儀のときに初めて知った。

私が里親として清子さんのもとに預けられたのは、私が八歳のときだった。

それから十年間、私は村上家で育った。

今の私は四十二歳になる。

四十四歳で、製造業の会社に勤めている夫の健一には「一人で行きたい」と伝えた。

理由はうまく説明できなかった。

ただ、誰かに見られながら整理できる気がしなかった。

最寄り駅から歩いて十二分。

その道を、体が覚えていた。

角を曲がるタイミング、坂の途中にある自動販売機、隣家の金木犀の木。

全部、変わっていなかった。

変わっていないことが、少し怖かった。

玄関の鍵は、清子さんの姪の、五十一歳で葬儀の際に挨拶を交わした佐藤礼子さんが持っていた。

礼子さんは「ゆっくりやってください」と言い残して、一時間後にまた来ると言った。

私は一人で、静かな家の中に立った。

においがした。

線香と、古い畳と、かすかに何か甘いものの混じった、村上家のにおいだった。

居間から始めて、台所、納戸と片付けていった。

処分するものと、残すものと、確認が必要なものに分けながら、機械的に手を動かした。

泣くかもしれないと思っていた。

でも、泣けなかった。

それが怖かった。

悲しくないのか、と自分に問いかけてみたが、答えが出なかった。

悲しくないわけではないと思う。

ただ、その感情がどこにあるのか、自分でも見つけられなかった。

押し入れの奥に、段ボール箱があった。

ガムテープで丁寧に封がされていて、側面にマジックで「さやかのこと」と書いてあった。

私の名前だった。

手が止まった。

開けるのに、少し時間がかかった。

中には、アルバムが四冊、几帳面に重ねて入っていた。

一冊目を開くと、私が委託されて最初の秋に行った遠足の写真があった。

私は写真の中で笑っていた。

その隣に、清子さんが立っていた。

次のページ。

誕生日ケーキの前で、私が目を閉じている写真。

次。

中学の入学式。

次。

高校の入学式。

自分でもほとんど覚えていない場面が、几帳面に並んでいた。

写真の中の私は、ほとんどの場面で笑っていた。

笑っていた理由を、私は何ひとつ思い出せなかった。

泣けない自分を、少し責めた。

清子さんは、私を一度も「娘」と呼ばなかった。

私も「お母さん」と呼んだことはなかった。

それが冷たい関係だったかといえば、そうじゃないと思う。

ただ、私たちの間にはずっと、名前のつかない距離があった。

悪い距離ではなかった。

でも、埋まることもなかった。

アルバムを静かに閉じた。

「さやかのこと」と書かれた文字を、もう一度見た。

清子さんの字だった。

几帳面で、少し右上がりの。

私は、その段ボール箱を持って帰ることにした。

なぜそうしたいのかは、自分でもわからなかった。

ただ、誰かに処分させたくなかった。

それだけはわかった。

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