うつ病の母親から里親委託へ3 里親、という言葉を、聞いたことはあった。 でも自分に関係のある言葉だとは、思っていなかった
面談は、月に二回あった。
精神科の外来に、支援員の川島さんがいた。
四十代の、落ち着いた女性だった。
診察の前後に、三十分ほど話す時間があった。
私はいつも「大丈夫です」と言ってきた。
大丈夫ではなかった。
でも大丈夫と言うことで、自分を保ってきた。
大丈夫と言えば、大丈夫な人間でいられる気がした。
そう思ってきた。
五月の面談だった。
川島さんが向かいに座った。
部屋は小さかった。
窓が一つあって、外が見えた。
今日は曇っていた。
白い空だった。
川島さんが「最近、どうですか」と言った。
「先週、三日間、布団から出られませんでした」と私は言った。
川島さんが頷いた。
「三日間、朝陽くんはどうしていましたか」と言った。
朝陽のことを聞かれたのは、初めてだった。
「大丈夫です」と言おうとした。
言いかけた。
でも止まった。
朝陽のことを、大丈夫と言えなかった。
自分のことは大丈夫と言えた。
嘘でも言えた。
でも朝陽のことには、その言葉が出なかった。
「夕飯を、作ってくれました」と私は言った。
「朝陽が」
川島さんが少し間を置いた。
「作ってくれたんですね」と言った。
「はい。
いつからか、作れるようになっていて」私は続けた。
「気づいたら、そうなっていました。
私が教えたわけじゃなくて」
川島さんが頷いた。
「他に、気づいたことはありますか」と言った。
私は少し黙った。
今朝の朝陽の顔が、浮かんだ。
笑う前に、私の顔を見る。
確認してから、笑う。
その順番が、浮かんだ。
「笑う前に、私の顔を見るんです」と私は言った。
「朝陽くんが?」
「はい。
笑っていいかどうか、確認してから笑う。
今朝、初めて気づきました」
川島さんが黙った。
窓の外の白い空が、変わらずそこにあった。
私は川島さんの顔を見た。
川島さんは私を見ていた。
責めていなかった。
でも何かを、受け取っていた。
涙が出た。
止めようとしたが、出た。
出てしまってから、止めることを諦めた。
川島さんがティッシュを差し出した。
私は受け取った。
目を押さえた。
泣きながら、続けた。
「私が、そうさせたんだと思います。
だめな日の私を見て、覚えたんだと思う」
「そうかもしれません」と川島さんが言った。
否定しなかった。
でも責めなかった。
そうかもしれない、とだけ言った。
泣きながら、話した。
元夫と離婚してから、うつが悪化したこと。
一人で朝陽を育てながら、「大丈夫です」と言い続けてきたこと。
大丈夫ではない日を、朝陽に見せてきたこと。
見せながら、朝陽が変わっていくのを、気づかないふりをしてきたこと。
全部、川島さんの前で出てきた。
川島さんは黙って聞いた。
メモを取らなかった。
ただ、聞いた。
その聞き方が、川島さんらしかった。
急かさなかった。
まとめようとしなかった。
私が話すままに、受け取った。
泣き終えた。
ティッシュが、手の中でぐしゃぐしゃになっていた。
私はそれを握ったまま、川島さんを見た。
「由佳さんが気づいたこと、大事なことだと思います」と川島さんが言った。
大事なこと、という言葉が、部屋に残った。
責めではなかった。
慰めでもなかった。
ただ、大事なことだ、と言った。
気づいたことを、大事なことだと言った。
気づいてしまったことを、責められると思っていた。
自分でも責めていた。
でも川島さんは、大事なことだと言った。
「朝陽くんのために、何かできることを、一緒に考えませんか」と川島さんが言った。
私は頷いた。
「里親、という選択肢があります」と川島さんが言った。
「由佳さんが回復するための時間を、朝陽くんが安全な場所で過ごす、という考え方です」
里親、という言葉を、聞いたことはあった。
でも自分に関係のある言葉だとは、思っていなかった。
今日まで。
川島さんの声が、穏やかだった。
窓の外の空が、少し明るくなっていた。
白い雲が、動いていた。
私はそれを見た。
動いていた。
止まっていなかった。
雲は、止まらなかった。
面談室を出た。
廊下が明るかった。
蛍光灯の白い光が、廊下に続いていた。
私は歩いた。
泣いた後の顔が、まだ残っていた。
目が、腫れているかもしれなかった。
でも歩けた。
自分のことは嘘をつけた。
でも朝陽のことには、嘘をつけなかった。
その違いが、今日の私には大きかった。
嘘をつかなかったから、泣いた。
泣いたから、川島さんに聞いてもらえた。
聞いてもらえたから、里親という言葉が届いた。
順番があった。
嘘をつかないことが、最初にあった。
朝陽の顔が、笑う前に私の顔を見た、あの朝が、最初にあった。
外に出た。
曇っていた空が、少し変わっていた。
雲の隙間から、光が差していた。
五月の光だった。
眩しかったが、刺さらなかった。
今日は、まだいい日だった。
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