うつ病の母親から里親委託へ2 笑う前に、私の顔を見る。 確認する。 お母さんは今日、いい日か。 笑っても大丈夫か
三日後、いい日が戻ってきた。
目が覚めたとき、光が眩しすぎなかった。
体が、重くなかった。
布団から出られた。
それだけで、今日はいい日だとわかった。
いい日が三日ぶりに来た。
三日間、何ができたか。
布団にいた。
朝陽が作ったものを、少し食べた。
それだけだった。
台所に立った。
冷蔵庫を開けた。
卵があった。
ほうれん草があった。
朝陽の好きな卵焼きを作ろうと思った。
出汁を少し入れると、甘くなる。
朝陽が好きな甘さだった。
どこで覚えたか、わからなかった。
気づいたら、朝陽の好きな甘さを知っていた。
フライパンを熱した。
卵を溶いた。
出汁を入れた。
菜箸で混ぜた。
フライパンに流した。
端から巻いた。
うまく巻けなかった。
形が崩れた。
でも焼けた。
皿に乗せた。
三日ぶりに、朝食を作れた。
朝陽を起こしに行った。
部屋に入ると、朝陽はもう起きていた。
ベッドに座って、本を読んでいた。
私が入ってきた気配を感じて、顔を上げた。
笑った。
笑う前に、一瞬だけ私の顔を見た。
私の顔を確認してから、笑った。
私はその順番に、気づいた。
今まで気づかなかった。
でも今朝、気づいた。
笑う前に、私の顔を見る。
確認する。
お母さんは今日、いい日か。
笑っても大丈夫か。
それを確かめてから、笑っていた。
朝陽が「おはよう」と言った。
「おはよう」と私は言った。
声が、少しだけ遅れた。
台所に戻った。
卵焼きが皿にあった。
崩れた形のまま、あった。
トーストを焼いた。
牛乳をコップに注いだ。
朝陽が台所に来た。
椅子に座った。
「卵焼き」と朝陽が言った。
嬉しそうだった。
「形、崩れちゃった」と私は言った。
「いいよ」と朝陽が言った。
「おいしければ」
箸を取った。
一口食べた。
「おいしい」と言った。
笑った。
笑う前に、私の顔を見なかった。
卵焼きを見て、笑った。
今度は確認しなかった。
卵焼きが嬉しくて、確認する前に笑った。
私はそれを見た。
確認しない笑顔が、あった。
確認する笑顔と、確認しない笑顔が、朝陽には両方あった。
どちらが本当の笑顔か、ではなかった。
両方、本当だった。
でも確認する笑顔を、私が作らせていた。
トーストを手に取った。
食べようとした。
口に入れた。
噛んだ。
飲み込もうとした。
飲み込めなかった。
喉の手前で、止まった。
置いた。
朝陽が「どうしたの」と言った。
「ちょっと待って」と私は言った。
水を飲んだ。
冷たかった。
ゆっくり飲んだ。
喉が、少し動いた。
「食欲ない?」と朝陽が言った。
「少しだけ」と私は言った。
朝陽が頷いた。
それ以上聞かなかった。
また卵焼きを食べ始めた。
その引き下がり方が、八歳のものではなかった。
聞いて、引き下がる。
それをいつから覚えたのか。
私はもう一度、トーストを手に取った。
食べた。
今度は飲み込めた。
味がした。
バターの味がした。
焦げた端の、香ばしい味がした。
食べながら、朝陽の横顔を見た。
朝陽が食べ終えた。
「ごちそうさま」と言った。
皿を台所に持っていった。
水で軽く流した。
それも、いつから覚えたのかわからなかった。
ランドセルを背負って、玄関に向かった。
「行ってきます」と言った。
ドアを開けた。
「朝陽」と私は言った。
朝陽が振り返った。
「なに」
「おいしかった?」
朝陽が「うん」と言った。
笑った。
今度も、確認しなかった。
私の顔を見る前に、笑った。
ドアが閉まった。
一人になった台所で、私は椅子に座った。
朝陽の皿が、流しに伏せてあった。
きれいに流してあった。
卵焼きの皿も、重ねてあった。
八歳が、自分の食器を片付けた跡だった。
笑う前に、顔色を読む。
その順番を、今朝初めて正確に見た。
見てしまった。
見てしまったことで、もう知らないふりができなくなった。
知らないふりができなくなったことが、今朝の私には重かった。
重くなった体が、また「だめな日」に向かうかもしれなかった。
でも今日は、まだいい日だった。
いい日の朝に、見てしまった。
見てしまったことを、どこかへ持っていかなければならなかった。
一人で抱えていたら、また布団の中に沈む。
どこへ持っていくか。
答えは、まだなかった。
でも今日は、いい日だった。
いい日のうちに、考えなければならなかった。
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言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。