ユイの前の家庭で、毎朝作られていた卵焼き。 その味を作った手を、私たちは知らない
三週間が経った。
ユイは少しずつ部屋に慣れてきた。
朝、自分でカーテンを開けるようになった。
夕食のあと、食器を台所に運んでくるようになった。
言葉は少なかったが、私たちの動きを目で追うことが増えた。
それだけで、今月は十分だとミオが言った。
私は日記にそれを書いた。
ある土曜の昼過ぎ、ミオが台所でボウルを出した。
「ユイちゃん、卵焼き一緒に作らない?」
リビングでクレヨンを動かしていたユイが顔を上げた。
首を横に振った。
ミオは「そっか」と言って、一人で卵を割り始めた。
私はソファから見ていた。
十分くらい経ったころ、ユイがクレヨンを置いた。
音もなく立ち上がって、台所に向かった。
ミオの隣に、黙って立った。
ミオは何も言わなかった。
砂糖とだしを混ぜながら、ユイが覗き込める角度にボウルを傾けた。
六歳の女の子が、二十六歳の女の隣で、泡立つ卵液を見ていた。
フライパンに油を引くと、じゅわりという音がした。
ユイの肩が少し動いた。
卵液を流すと、甘い匂いが台所に広がった。
ミオが菜箸で端を折りながら、丁寧に巻いた。
皿に乗せて、三つに切った。
「食べてみて」
ユイは箸を持った。
一切れを口に入れた。
よく噛んだ。
飲み込んだ。
「ちがう」
泣かなかった。
叫ばなかった。
ただ、静かに言った。
箸を皿の横に置いた。
ミオは「そっか、ちがうか」と言って、自分の箸を取った。
残りの二切れを、ゆっくり食べた。
おいしそうに食べた。
傷ついた顔を、しなかった。
私はそれを、台所の入口から見ていた。
夜、ユイが寝てから日記を開いた。
今日書きたいことは、ミオのことだった。
「ちがう」と言われたとき、ミオは一秒も顔を曇らせなかった。
LGBT、同性愛カップルとして里親になることを決めたとき、私は自分たちに足りないものを数え続けた。
経験も、実績も、世間が想像する「ふつうの家族」の形も。
でも今日台所で足りなかったのは、そういうことじゃなかった。
あの味だけは、再現できない。
ユイの前の家庭で、毎朝作られていた卵焼き。
その味を作った手を、私たちは知らない。
その台所の匂いを、私たちは嗅いだことがない。
どれだけ近づこうとしても、同じにはなれない。
でも今日、ミオは「そっか、ちがうか」と言った。
それだけだった。
責めなかった。
謝らなかった。
ただ、受け取った。
私はミオのその強さを、まだ持っていない。
ペンを置いて、台所を見た。
洗い終わったフライパンが、水切りかごに立てかけてあった。
油の匂いが、まだ少し残っていた。
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