運動会の帰り道に、五十四歳の男が八歳の子どもにかける言葉を、私は持っていなかった。
保護者席は、校庭の端に白いパイプ椅子が並んでいた。
ノブと二人、真ん中あたりに座った。
左隣は母親が一人でビデオカメラを構えていた。
右隣は祖父母らしき老夫婦が、お茶を回し飲みしていた。
誰も私たちを見なかった。
見ないことで、見ていた。
五十四歳の男は、その種類の視線の避け方を、長い年月をかけて覚えてきた。
競技が始まった。
アナウンスが響くたびに、保護者席がざわついた。
子どもの名前を呼ぶ声、手を叩く音、スマートフォンを構える腕。
秋の空気は乾いていて、運動場の砂埃が風に乗った。
私はプログラムを膝の上に置いて、校庭を見ていた。
徒競走は午前の最後だった。
三年生の列にショウがいた。
白い帽子をかぶって、スタートラインに並んでいた。
遠くて表情は読めなかった。
ピストルが鳴った。
ショウは速かった。
最初の十メートルで前に出て、そのまま誰にも追いつかせなかった。
ゴールテープを切った瞬間、ノブが「おお」と短く言った。
私は何も言わなかった。
言葉が出てくる前に、ショウが保護者席を見た。
目が合った。
一秒か、二秒か。
ショウはすぐに視線を外して、列に戻っていった。
それだけだった。
その一瞬に何があったのか、午後の競技の間もずっと考えていた。
確認だったのか。
来ているかどうか、確かめたかっただけなのか。
それとも、もっと別の何かだったのか。
答えを持たないまま、閉会式を聞いた。
帰り道、三人で並んで歩いた。
ノブが「速かったな、一番だったぞ」と言った。
ショウは「うん」と言った。
私は黙って歩いた。
言葉が見つからなかった。
運動会の帰り道に、五十四歳の男が八歳の子どもにかける言葉を、私は持っていなかった。
家に帰って、ショウが部屋に戻った。
私は台所でお茶を入れた。
湯呑みを両手で持って、廊下に出たとき、ショウの部屋の前を通った。
ドアが少し開いていた。
隙間から声が聞こえた。
「一番だった」
誰かに話しかけているわけではなかった。
ただ、自分に言い聞かせるように。
あるいは、誰かに報告するように。
小さく、確かめるように。
私はその場に立ったまま、お茶が冷めていくのを感じていた。
言いたかったのだ、あの子は。
誰かに。
一番だったと。
その誰かに、私はまだなれていない。
なれているのかどうか、今夜はまだわからない。
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