施設に入って、しばらくして里親制度で吉田家に引き取られた。

任務報告

アパートに帰ったのは、夜の八時過ぎだった。

冷蔵庫から缶ビールを出して、ソファに座った。

テレビをつけたが、何も頭に入らなかった。

結局消して、暗い部屋で缶を傾けた。

こういう夜が、たまにある。

何かがあったわけではないのに、うまく切り替えられない夜が。

実母の顔を、私はほとんど覚えていない。

六歳のとき、実母が蒸発した。

朝起きたら、家に誰もいなかった。

近所の人が気づいて、児童相談所に連絡した。

施設に入って、しばらくして里親制度で吉田家に引き取られた。

その一連のことを、私は記憶の断片としてしか持っていない。

施設の廊下の蛍光灯の白さ。

担当者の女性が履いていた黒いパンプス。

それくらいだ。

実母の顔は、出てこない。

覚えていないことを、ずっと普通のことだと思ってきた。

六歳の記憶など、誰だって曖昧なものだ。

特別なことではない。

そう自分に言い聞かせてきた。

でも今日、松田に「似てる」と言われた瞬間、私は無意識に何かを探した。

覚えていないはずの顔を、頭の中で探していた。

見つからなかった。

当然だった。

吉田家に連れていかれた夜のことは、少し覚えている。

里親の吉田康夫さんは当時五十歳で、元大工だった。

三年前に六十八歳で他界している。

初めて会ったとき、康夫さんは玄関に立って、私を見下ろした。

大きな人だった。

無口で、表情が読めなかった。

正直、怖かった。

幸子さんは当時四十五歳で、康夫さんとは対照的によく笑う人だった。

「ご飯食べようね」と言って、台所に連れていってくれた。

夕食は肉と野菜の炒め物だった。

おいしかった記憶はあるが、食べたのか食べていないのか、はっきりしない。

康夫さんと初めてちゃんと向き合ったのは、吉田家に来て一週間ほど経ったころだった。

縁側で康夫さんが木を削っていた。

私はすることがなくて、ただそこに座った。

康夫さんは何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

しばらくそうしていると、康夫さんが小さな木片を私の手のひらに置いた。

何の説明もなかった。

ただ、渡された。

木片は、不思議とあたたかかった。

削りたての木の、やわらかいにおいがした。

それが吉田家での最初の安心だった、と今なら言える。

あのとき六歳の私には、安心という言葉はなかった。

ただ、もう少しここにいてもいい気がした。

それだけだった。

缶ビールを飲み干して、もう一本取りに行く気にもなれなかった。

三十五歳の私が今さら考えていることを、六歳の私は何も考えていなかった。

血がつながるとはどういうことか。

似ているとはどういうことか。

里親家庭で育つとはどういうことか。

そんな問いを持つ言葉を、六歳の私はまだ持っていなかった。

持っていなくてよかったと思う。

あのころ余計なことを考えなかったから、縁側で康夫さんの隣に座れた。

木片を受け取れた。

そういうことだったかもしれない。

でも三十五歳の私は、今日から少し、考え始めてしまった気がした。

部屋の棚に、あの木片がある。

六歳のとき康夫さんからもらって、三十五歳の今も捨てられずにいる。

引っ越しのたびに持ち歩いてきた。

なぜ捨てられないのか、自分でもよくわからない。

ただ、手放す気になれなかった。

暗い部屋で、私は棚の方向をしばらく見ていた。

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