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合言葉を失った

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障害児を里子へ5 乾いていた目が、今日は濡れていた。あの夜、許せなかった目が、今日は泣いていた。

委託の朝、さおりは陽を早めに起こした。

いつもより三十分早かった。
理由はなかった。
ただ、今日は長く一緒にいたかった。
それだけだった。
陽を抱き上げると、陽が声を上げた。
眠そうな声だった。
さおりは「おはよう」と言った。
陽がまた声を上げた。
目が開いた。
天井を見た。
それからさおりの顔を見た。

笑った。

さおりにはわかった。
この子は今日も笑っている。
委託の朝も、笑っている。
何も知らない顔で、笑っている。
さおりは陽を胸に抱いたまま、しばらく動かなかった。
陽の体が温かかった。
薄いパジャマの下に、体の熱があった。
心臓の音が、さおりの胸に伝わってきた。

朝食を終えて、荷物を確認した。

着替え、医療的なケアに必要な道具、療法士からの引き継ぎ資料。
それから、小さなぬいぐるみを一つ。
白いうさぎだった。
陽が声を上げると体が動いて、よくこのぬいぐるみに触れた。
手が届くと、指が動いた。
このぬいぐるみだけは、持たせたかった。

光一が荷物を車に運んだ。

さおりは陽を抱いたまま、それを見ていた。
光一は黙って運んだ。
一往復、二往復。
靴音が廊下に響いた。
さおりは陽の耳元で、小さな声で話しかけた。
今日から新しいおうちに行くこと。
優しい人たちがいること。
さおりの声を聞いて、陽が体を動かした。
手が、少し上がった。

わかっているのかどうか、さおりにはわからなかった。

わかっていなくていい、と思った。
ただ声を聞いて、体を動かしてくれるだけで、十分だった。

車で四十分走った。

さおりは後部座席で陽を抱いていた。
光一が運転した。
ラジオをつけなかった。
無音だった。
信号で止まるたびに、エンジンの低い音だけがした。
陽が時々声を上げた。
さおりが応えた。
それだけが、車の中の会話だった。

光一が何も言わなかった。

さおりも何も言わなかった。
言葉を探さなかった。
今日は言葉のない朝でいい、とさおりは思った。
言葉を並べても、二人の間にあるものは変わらない。
変わらないものを、今日は動かさなくていい。

川沿いの道を走った。

水面が光っていた。
四月の朝の光が、川に落ちていた。
陽が窓の外を見た。
光の方を向いた。
目が、光を追っていた。
さおりはその横顔を見た。
この子の目は、光を見る。
どこにいても、光を見る。
その確信が、今朝のさおりには支えだった。

里親の家は、住宅街の奥にあった。

平屋の、庭のある家だった。
庭に木が一本あって、若い葉が出ていた。
四月の、薄い緑だった。
担当者がすでに来ていた。

里親の夫婦が玄関から出てきた。

五十代の、落ち着いた二人だった。
妻が先に来て、陽の顔を覗いた。
「会いたかったよ」と言った。
低い、穏やかな声だった。
陽が声を上げた。
体が動いた。
妻が「あら」と言って、微笑んだ。
「元気だね」と言った。

さおりはその声を聞いた。

温度があった。
陽に向けられた、確かな温度があった。
この人たちに預ける、という気持ちが、今朝初めてはっきりした。
気持ちが決まったのではなかった。
ただ、この人たちなら、陽の笑顔を見てくれる、とわかった。
陽が笑ったとき、一緒に笑ってくれる人たちだと、わかった。

玄関の前で、さおりは陽を抱いた。

最後に抱く、と決めていた。
荷物も渡した。
引き継ぎも終えた。
あとは渡すだけだった。
でもその前に、一度だけ、しっかり抱いた。

陽の耳元で、「行っておいで」と言った。

さおりの声を聞いて、陽の体が動いた。
手が上がった。
さおりの肩のあたりを、かすかに叩いた。
それから、笑った。
さおりにはわかった。
笑っていた。
今日も、この子は笑っていた。

さおりは陽を、里親の妻に渡した。

妻が陽を受け取った。
陽が声を上げた。
妻が「はいはい」と言った。
その言い方が、西村さんに似ていた。
温度のある言葉だった。
陽の体が、妻の腕の中で動いた。

光一が隣にいた。

黙っていた。
さおりは光一を見なかった。
陽だけを見ていた。
妻の腕の中で、陽が笑っていた。

玄関のドアが閉まった。

庭の木の葉が、風に揺れた。
薄い緑が、朝の光の中で透けていた。
さおりは庭を見た。
光一が隣にいた。
担当者が何か言った。
さおりは頷いた。
何を言われたか、よく聞こえなかった。

車に戻った。

さおりが助手席に座った。
光一が運転席に座った。
エンジンをかけた。
車が動き出した。

さおりは窓の外を見た。

里親の家が、後ろに遠ざかった。
庭の木が見えた。
葉が揺れていた。
見えなくなった。

光一が泣いていた。

さおりは気づいた。
運転しながら、光一が泣いていた。
声は出ていなかった。
ハンドルを握ったまま、前を向いたまま、泣いていた。
頬に涙が伝っていた。

さおりは光一を見た。

乾いていた目が、今日は濡れていた。
あの夜、許せなかった目が、今日は泣いていた。

許せた、とはならなかった。

でも光一も、愛していた。

愛し方が違っただけだった。
形が違っただけだった。
その理解が、許すこととは別の場所に、静かに落ちた。
胸の奥の、深いところに。
音もなく、落ちた。

さおりは光一の涙を、拭わなかった。

でも見ていた。
前を向いたまま泣く光一を、さおりはしばらく見ていた。
川が見えた。
水面が光っていた。
陽が光を追っていた横顔を、思った。
どこにいても、光を見る子だった。

その確信だけを、今日は持って帰った。

光一が涙を拭った。
袖で、一度だけ拭った。
それだけだった。
二人はまた、黙って走った。
川が続いていた。
光が続いていた。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。


隊士 お館様管理者

藤の里における鬼倒隊を統率している者。私が初めて鬼の存在を知ったのは、ボランティアの場でした。 里親制度への無知と誤解という鬼が、日本中に蔓延していること。そのせいで、家庭で暮らせずにいる子どもたちがいること。里親になりたくても、なれずにいる人たちがいること。 その現実が、忘れられませんでした。 それからも何度もボランティアを重ねるたびに、鬼の大きさを思い知らされました。 私自身は里親経験者ではありません。 剣を持って戦える立場にはない。 だからこそ、実際に戦ってきた方々の記録を集め、次の誰かへ届ける場所を作ることが、私にできる戦いだと思いました。 藤の里は、その使命のために生まれました。 あなたの戦いの記録を、ここに刻んでください。 その呼吸を、次の世代へつないでいきましょう。

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