この七歳の男の子の「あの」に、三ヶ月かかった。

任務報告

朝、カイが登校前にランドセルを背負いながら言いかけた。

「あの……」

止まった。私はコートのボタンを留めながら、続きを待った。カイは一度口を閉じて、それからもう一度開いた。

「サチさん、今日お弁当いる?」

遠足は来週だった。だからお弁当はいらない。

「いらないよ」と答えると、カイは「そっか」と言って玄関を出た。

扉が閉まって、足音が階段を降りていった。私はしばらくそこに立っていた。

「あの」から「サチさん」に、言い直した。その数秒を、ずっと見ていた。

夜、ユキが寝たあとで日記を開いた。今日こそ、ちゃんと書こうと思った。

カイがこの家に来てから、私は「あの」という言葉を何十回聞いただろう。

最初は空白だと思っていた。名前がない場所、呼び方が決まらない空白。

だからその言葉が聞こえるたびに、どこかで息を詰めていた。

でも今日、カイが「あの」と言いかけて止まった瞬間を見て、初めてわかった気がした。

あの言葉は、空白じゃなかった。

カイはずっと、誰かを呼ぼうとしていた。

名前がわからないまま、呼び方が見つからないまま、それでも「あの」と言って、こちらに手を伸ばしていた。

牛乳パックを持って振り返ったときも、膝から血を流しながら処置が終わったあとも、ずっと。

私はその手に、気づくのが遅かった。

元教員として、三百人以上の子どもと関わってきた。

子どもの言葉を読むのは得意だと思っていた。でもこの七歳の男の子の「あの」に、三ヶ月かかった。

ペンを持ったまま、窓の外を見た。夜の住宅街が静かだった。カイの部屋の電気は、もう消えていた。

最後に一行だけ書いた。

この子が「あの」と言うたびに、私はちゃんと呼ばれていたんだと思う。

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