西村さんが帰り際に言ったのは、三月の終わりだった。
リハビリを終えて、道具を片付けながら、西村さんが言った。
特別な場面ではなかった。
バッグのチャックを閉めながら、立ったまま、言った。
「さおりさん、陽ちゃんってね、専門的な環境に入ったら、もっと伸びる可能性があると思うんですよ」
さおりは陽を抱いたまま、西村さんを見た。
「どういう意味ですか」と言った。
声が、少し固くなった。
西村さんは立ったまま、さおりを見た。
目が、真剣だった。
「手放してほしいって言いたいんじゃないんです」と言った。
「ただ、陽ちゃんには可能性がある。
その可能性を、最大限に引き出せる場所がある、ってこと、知っていてほしくて」
さおりは何も言えなかった。
陽が声を上げた。
さおりは陽の背中を、手のひらで叩いた。
規則正しく、やわらかく叩いた。
西村さんが帰った後、さおりはリビングに座った。
陽をマットに寝かせた。
陽が天井を見ていた。
さおりは陽の隣に座って、膝を抱えた。
西村さんの言葉が、頭の中で光一の言葉と重なった。
専門的なケアが必要だ。
俺たちには限界がある。
光一の言葉だった。
専門的な環境に入ったら、もっと伸びる可能性がある。
西村さんの言葉だった。
意味は同じだった。
同じことを、二人が言った。
悔しかった。
光一と同じことを、西村さんが言った。
光一の論理が、西村さんの言葉で裏打ちされた。
それが悔しかった。
光一が正しかったことが悔しいのではなかった。
光一の言葉には届かなかったものが、西村さんの言葉には届いた。
その違いが、さおりには悔しかった。
陽が声を上げた。
さおりは「なに」と言った。
陽がまた声を上げた。
さおりは陽の顔を見た。
笑っていた。
さおりにはわかった。
この子は今日も笑っている。
何も知らずに、笑っている。
何も知らなくていい、とさおりは思った。
ただ笑っていてくれれば、それでいい。
どこにいても、笑っていてくれれば。
その気持ちが浮かんだとき、さおりは自分が少し動いたことを知った。
その夜、光一が帰ってきてから、さおりは言った。
「同意する」
夕飯の後だった。
陽が眠ってから言った。
光一がテーブルの向かいに座っていた。
さおりは光一の目を見ずに言った。
テーブルの木目を見ながら言った。
光一が少し黙った。
「ありがとう」と言った。
さおりはその言葉が嫌だった。
ありがとう、という言葉の中に、安堵があった。
さおりにはわかった。
光一が安堵している。
陽を手放すことに、安堵している。
その安堵が、さおりには許せなかった。
愛しているなら、安堵するな。
悲しめ。
泣け。
声を震わせろ。
でも言えなかった。
言葉が、また喉の手前で止まった。
この二年間、何度も止まってきた場所だった。
さおりはテーブルの木目を見たまま、「陽のためだから」と言った。
光一のためでも、自分のためでもなく、陽のために同意する。
そう言いたかった。
でも声に出すと、少し違った。
陽のため、という言葉が、言い訳に聞こえた。
誰に対する言い訳なのか、さおりにはわからなかった。
その夜も、さおりは陽の部屋で眠った。
陽の寝息が聞こえた。
規則正しい、深い音だった。
さおりはその音を聞きながら、同意した夜のことを確かめた。
後悔しているか。
していなかった。
許せているか。
していなかった。
許せないまま、従った。
それだけだった。
それだけのことだった。
人生にはそういう夜がある。
正しいかどうかより、動かなければならない夜が。
さおりには今夜がそうだった。
陽の手が、マットの上にあった。
小さな手だった。
昼間、さおりの指を握った手だった。
眠っている今は、力が抜けていた。
開いたまま、静かにあった。
さおりはその手に、自分の指を置いた。
今度は握らなかった。
ただ、置いた。
温かかった。
窓の外で、風が鳴った。
三月の終わりの風だった。
春の匂いが、微かに届いた。
さおりは目を閉じた。
陽の寝息が続いていた。
その音だけが、今夜のさおりには十分だった。
登場人物
- 村上 さおり(むらかみ さおり)
女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。 - 村上 光一(むらかみ こういち)
男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。 - 村上 陽(むらかみ はる)
3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。