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合言葉を失った

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障害児を里子へ3 その笑顔が、今日のさおりには、委託への抵抗でもあり、委託への理解でもあった。

話し合いから、十四日が過ぎた。

光一とは、それ以来、陽のことを話していなかった。
話さないことで、何かが保たれていた。
何が保たれているのかは、さおりにもよくわからなかった。
ただ、話せば壊れる気がした。
壊れてはいけないものが、まだあった。

毎朝、リハビリを続けた。

陽の腕を動かした。
肘を曲げて、伸ばす。
膝を曲げて、伸ばす。
療法士に教わった順番通りに。
陽が声を上げるたびに、さおりが応えた。
応えると、また声が来た。
その繰り返しだった。
この繰り返しが、さおりには必要だった。
陽が応えてくれることが、この二年間の支えだった。

その朝は、光一が出勤してから三十分後だった。

さおりは陽の左腕を、ゆっくり持ち上げた。
肘を曲げた。
伸ばした。
また曲げた。
陽が声を上げた。
さおりが「そうだよ」と言った。
また声が来た。

指を動かす番になった。

さおりが陽の手のひらに、自分の人差し指を置いた。
陽の指が、少し動いた。
さおりはそのまま待った。
待つことを、療法士に教わっていた。
急かさないこと。
時間をかけること。
陽のペースがあること。

陽の指が、動いた。

さおりの指を、包むように。
弱かった。
かすかだった。
でも確かに、そこに力があった。
さおりの人差し指が、陽の手の中にあった。

さおりは声を上げそうになった。

堪えた。
声が出たら、陽の指が離れる気がした。
このままでいたかった。
もう少し、このままでいたかった。
陽の手のひらが、温かかった。
小さかった。
その小ささの中に、確かな力があった。

光一に電話をかけたかった。

反射的に、そう思った。
今すぐかけて、陽が指を握った、と伝えたかった。
でも手が動かなかった。
陽の指を握ったまま、さおりは動けなかった。

電話して、光一はなんと言うか。

「そうか」と言うか。
「よかったな」と言うか。
正しい言葉が返ってくる。
間違いなく、正しい言葉が返ってくる。
でも今は正しい言葉が欲しくなかった。
一緒に声を上げてくれる人が欲しかった。
信じられないね、と言って、電話口で泣いてくれる人が欲しかった。

光一は、そういう人ではなかった。

七年間、ずっとそうだった。
変わらなかった。
変わることを、もう期待していなかった。
期待しなくなったことが、諦めなのか、受け入れなのか、さおりにはまだ区別がつかなかった。

陽の指が、少し緩んだ。

さおりは陽の顔を見た。
陽が声を上げた。
笑っているように見えた。
さおりには、笑っているとわかった。
この子は笑う。
指を握る力がかすかでも、笑う力は確かにあった。

午後、療法士の西村さんが来た。

週に二回、訪問してくれる人だった。
四十代の、声の大きな女性だった。
陽のそばに座ると、陽が声を上げた。
西村さんはいつも「はいはい、来たよ」と言った。
その言い方が、さおりには好きだった。

リハビリの後、西村さんがさおりに言った。

「今日、指握りましたよ」とさおりは言った。

西村さんが「え」と言った。
「握った?」
「握りました。
人差し指を」
西村さんが「本当に」と言って、陽を見た。
「やるじゃない、陽ちゃん」と言った。
声が大きかった。
陽が反応した。
体が動いた。

さおりは西村さんの顔を見た。

西村さんの目が、潤んでいた。
さおりはそれを見て、初めて泣いた。
声は出なかった。
ただ涙が出た。
西村さんが「よかったね」と言った。
その「よかったね」は、正しい言葉だったが、温度があった。
温度のある正しい言葉だった。

光一の「よかったな」とは、違う言葉だった。

夜、光一が帰ってきた。

さおりは夕飯を出しながら、「今日、陽が指を握った」と言った。

光一が顔を上げた。
「そうか」と言った。
「よかったな」と言った。

さおりは「うん」と言った。

それだけだった。

夕飯の間、陽が声を上げた。
さおりが応えた。
光一は黙って食べた。
三人のテーブルに、箸の音がした。
外で風が鳴った。
アパートの窓が、微かに揺れた。

さおりは陽の顔を見た。

陽が笑っていた。
さおりにはわかった。
この孤独の中で、この子は笑う。
その笑顔が、今日のさおりには、委託への抵抗でもあり、委託への理解でもあった。
どちらでもある、ということが、さおりにはまだ整理できなかった。

整理できなくていい、と西村さんなら言うかもしれなかった。

光一は言わない。
でも西村さんなら、言うかもしれなかった。


登場人物

  • 村上 さおり(むらかみ さおり)
    女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。
  • 村上 光一(むらかみ こういち)
    男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。
  • 村上 陽(むらかみ はる)
    3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。

隊士 お館様管理者

藤の里における鬼倒隊を統率している者。私が初めて鬼の存在を知ったのは、ボランティアの場でした。 里親制度への無知と誤解という鬼が、日本中に蔓延していること。そのせいで、家庭で暮らせずにいる子どもたちがいること。里親になりたくても、なれずにいる人たちがいること。 その現実が、忘れられませんでした。 それからも何度もボランティアを重ねるたびに、鬼の大きさを思い知らされました。 私自身は里親経験者ではありません。 剣を持って戦える立場にはない。 だからこそ、実際に戦ってきた方々の記録を集め、次の誰かへ届ける場所を作ることが、私にできる戦いだと思いました。 藤の里は、その使命のために生まれました。 あなたの戦いの記録を、ここに刻んでください。 その呼吸を、次の世代へつないでいきましょう。

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