話し合いは、陽が眠ってから始まった。
リビングのテーブルを挟んで、さおりと光一が向かい合った。
ケーキの皿は片付けていた。
テーブルの上には何もなかった。
何もないテーブルが、二人の間にあった。
光一が話し始めた。
順番があった。
まず現状の整理。
次に課題の列挙。
最後に結論。
光一はいつもそういう話し方をした。
会議のような話し方だと、さおりは結婚して最初の年に思った。
今はもう慣れていた。
慣れたことが、良いことなのかどうか、考えないようにしてきた。
「陽には、専門的なケアが必要だ」と光一は言った。
「わかってる」とさおりは言った。
「俺たちにできることの、限界がある」
「わかってる」
「陽の将来を、長い目で見たとき——」
「わかってる」とさおりはまた言った。
光一が止まった。
さおりを見た。
さおりは光一の目を見た。
乾いていた。
泣いていない目だった。
充血もしていなかった。
陽の委託を提案しながら、光一の目は乾いていた。
論理的に、正確に、言葉を並べながら、その目は何も濡れていなかった。
さおりは光一の目から、視線を逸らせなかった。
なぜ泣かないのか。
この子を手放す話をしながら、なぜその目が乾いているのか。
泣けないのか。
泣かないのか。
その違いが、さおりには今夜、決定的だった。
どちらにしても、この人の愛情の形は、私とは違う。
その確信が、テーブルを挟んで、静かに固まった。
「里親委託を、考えてほしい」と光一は言った。
さおりは光一の目を見たまま、「私は」と言った。
「まだ、手放せない」
光一は少し黙った。
「わかった」と言った。
その夜、さおりは陽の部屋で眠った。
陽の横に布団を敷いた。
陽の寝息が聞こえた。
規則正しい、深い音だった。
さおりはその音を聞きながら、天井を見た。
光一の言葉は、正しかった。
全部、正しかった。
専門的なケアが必要なことも、限界があることも、陽の将来のことも。
一つも間違っていなかった。
だからこそ、さおりには光一の言葉が届かなかった。
正しい言葉が、届かない夜があった。
欲しかったのは、正しさではなかった。
この子を手放す話をするなら、泣きながら話してほしかった。
声が震えてほしかった。
言葉が途切れてほしかった。
それがさおりの求めるものだった。
でも光一はそういう人ではなかった。
結婚して七年、ずっとそういう人だった。
陽が寝返りを打とうとして、できなかった。
体が少し動いた。
さおりは手を伸ばして、陽の背中に触れた。
温かかった。
薄いパジャマの下に、体の熱があった。
手放せない、と思った。
でも手放せない理由が、陽のためなのか、自分のためなのか、今夜はまだわからなかった。
わからないまま、陽の寝息を聞いていた。
翌朝、光一はいつもと同じ時間に起きた。
いつもと同じように、コーヒーを淹れた。
いつもと同じように、「行ってくる」と言った。
さおりは陽の部屋から出て、「うん」と言った。
ドアが閉まった。
足音が遠ざかった。
さおりは台所に立った。
コーヒーの香りが残っていた。
光一が淹れたコーヒーの、温かい匂いだった。
カップが一つ、シンクに伏せてあった。
自分の分だけ淹れて、洗って、伏せて、出かけた。
さおりはそのカップを見た。
責める気持ちと、責めてはいけないという気持ちが、また同時に来た。
この二年間、ずっとこの繰り返しだった。
どちらかに決まらないまま、朝が来て、陽が声を上げて、また一日が始まった。
「陽」とさおりは呼んだ。
リビングから、声が来た。
あ、という声だった。
さおりはそちらへ向かった。
陽がいた。
天井を見て、声を上げていた。
さおりの顔を見て、また声を上げた。
体が動いた。
手が、少し持ち上がった。
さおりはその手を、両手で包んだ。
温かかった。
柔らかかった。
この手を、まだ知っていたかった。
登場人物
- 村上 さおり(むらかみ さおり)
女性・36歳 主人公。元幼稚園教諭。現在は専業主婦。感情を言葉にする力を持っているが、夫との間ではその力を使えなくなっている。 - 村上 光一(むらかみ こういち)
男性・39歳 夫。システムエンジニア。論理的に物事を処理する人。愛情がないわけではない。ただ、愛情の形が、さおりとは根本的に違う。 - 村上 陽(むらかみ はる)
3歳。生後8ヶ月のときに重度の脳性麻痺と診断された。よく笑う。さおりの声を聞くと、体が動く。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。