鬼倒隊に入隊する( 会員登録 )

里に入る( ログイン )

合言葉を失った

Lost your password? Please enter your email address. You will receive a link and will create a new password via email.

母子家庭/貧困 5話(終) 泣く体力が残っていなかったのか、泣く場所がわからなかったのか、自分でもわかならかった。

登場人物

  • 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
    主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。
  • 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
    息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。

委託の前日の夜、私は弁当箱を洗った。

明日からは使わない弁当箱だった。

それでも洗った。

スポンジに洗剤をつけて、内側を丁寧に擦った。

蓋の溝に残った汚れを、爪で押したスポンジの角で取った。

蛇口をひねると、水が冷たかった。

十二月の水道水は、指の感覚をすぐに奪った。

それでも洗い続けた。

蓮はもう眠っていた。

六畳の部屋の隅に、蓮の布団があった。

荷物は昨日のうちにまとめた。

着替えと、好きな恐竜の図鑑と、保育園で作った小さな絵。

部屋の棚が、少し寂しくなっていた。

弁当箱だけが、台所に残っていた。

明日からここに来る人間は、私一人だった。

弁当箱を伏せて、乾かした。

また会いに来るよ、と蓮に言えるか。

洗いながら、ずっと考えていた。

言える根拠はなかった。

行けるかどうか、自分でもわからなかった。

でも言わなければ、蓮が明日、玄関を入れない気がした。

だから言う。

嘘ではないと思いたかった。

思いたい、という気持ちだけを、手元に置いておいた。

当日の朝、蓮は六時に起きた。

私はもう台所にいた。

蓮の好きなウインナーを焼いた。

パチパチと、油が跳ねる音がした。

皮が破れて、断面が赤くなった。

蓮が台所に来て、「いいにおい」と言った。

椅子に座って、両手で頬杖をついて、フライパンを眺めた。

朝食を並べると、蓮は全部食べた。

私は半分しか食べられなかった。

ウインナーを一本、口に入れた。

塩気と油の味がした。

飲み込むのに、時間がかかった。

蓮が「お母さん食べないの」と言った。

「後で食べる」と私は言った。

蓮は「ふーん」と言って、麦茶を飲んだ。

車は、担当者が出してくれた。

蓮は後部座席に座った。

膝の上に、小さなリュックを抱えていた。

窓の外をずっと見ていた。

何を見ているのか、私にはわからなかった。

コンビニ、公園、保育園の前を通った。

保育園の門のところで、蓮が少しだけ顔を向けた。

何も言わなかった。

また窓の外に戻った。

三十分ほど走って、車が止まった。

閑静な住宅街だった。

庭のある、平屋の家だった。

玄関の前に、プランターが並んでいた。

冬だから花はなかったが、土が黒く湿っていた。

誰かが最近、水をやっていた。

里親の夫婦が出てきた。

五十代くらいの、背の高い夫と、エプロンをつけた妻だった。

二人とも、穏やかな顔をしていた。

担当者が蓮の隣にしゃがんで、「ここがおうちだよ」と言った。

蓮は黙って、玄関を見た。

「お母さんも来る?」
蓮が私を見て、言った。

胸の奥で、何かが鳴った。

音ではなかった。

痛みでもなかった。

ただ、何かが鳴った。

「また会いに来るよ」と私は言った。

蓮は三秒ほど私を見た。

それから頷いた。

里親の妻が蓮の隣に来て、「一緒に入ろうか」と言った。

その声が温かかった。

蓮はその声の方を向いて、歩き出した。

玄関のドアが開いた。

蓮が中に入った。

ドアが閉まった。

プランターの土が、日に当たっていた。

湿った黒い土が、冬の光を吸っていた。

帰りは電車だった。

担当者の車には乗らなかった。

一人で帰りたかった。

駅まで歩いて、ホームに立って、電車を待った。

風が吹いて、コートの中まで冷えた。

電車が来て、乗った。

吊り革を握った。

誠の手を握る相手は、いなかった。

窓の外に、町が流れた。

知らない駅、知らない商店街、知らない踏切。

泣かなかった。

泣く体力が残っていなかったのか、泣く場所がわからなかったのか、自分でもわかならかった。

ただ吊り革を握って、立っていた。

窓に、自分の顔が映っていた。

思ったより、普通の顔をしていた。

泣いてもいない。

笑ってもいない。

ただそこにある顔だった。

私はその顔を見ながら、思った。

この顔が、少し楽になったら、迎えに行こう。

楽になれるかどうかは、わからなかった。

いつになるかも、わからなかった。

でも初めて、「その日」を想像した。

蓮が大きくなって、私が迎えに行く日を。

その日の朝、私は弁当箱を出すかもしれない。

蓮の好きなものを、また考えるかもしれない。

電車が駅に止まった。

ドアが開いた。

冷たい空気が入ってきた。

私は吊り革を離して、降りた。


隊士 お館様管理者

藤の里における鬼倒隊を統率している者。私が初めて鬼の存在を知ったのは、ボランティアの場でした。 里親制度への無知と誤解という鬼が、日本中に蔓延していること。そのせいで、家庭で暮らせずにいる子どもたちがいること。里親になりたくても、なれずにいる人たちがいること。 その現実が、忘れられませんでした。 それからも何度もボランティアを重ねるたびに、鬼の大きさを思い知らされました。 私自身は里親経験者ではありません。 剣を持って戦える立場にはない。 だからこそ、実際に戦ってきた方々の記録を集め、次の誰かへ届ける場所を作ることが、私にできる戦いだと思いました。 藤の里は、その使命のために生まれました。 あなたの戦いの記録を、ここに刻んでください。 その呼吸を、次の世代へつないでいきましょう。

コメント