登場人物
- 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。 - 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。
手続きが進んでいた。
担当者との面談が二回あった。
書類を書いた。
蓮の保育園に連絡が入った。
私の生活状況を、誰かが丁寧に確認していた。
それは有難いことだったが、自分の輪郭を何度もなぞられるような感覚があった。
正しく書けば書くほど、正しく伝えれば伝えるほど、私が「支援を必要とする母親」として形になっていった。
蓮には、何も言えなかった。
夕飯を作りながら、何度か口を開きかけた。
でも蓮が笑っていると、言えなかった。
蓮が何か話しかけてくると、その話を聞いた。
保育園で何があったか。
好きな恐竜の名前。
砂場で作った山の話。
私はそれを聞きながら、今日も言えなかった、と思った。
ある夜、風呂上がりの蓮がリビングに来た。
髪が濡れていた。
タオルを頭にかけたまま、私の隣に座った。
テレビがついていた。
私はテレビを見ていなかった。
蓮も少しの間、黙って画面を見ていた。
「ねえ」と蓮が言った。
「なに」
「お母さん最近、なんか変だよ」
私はテレビを見たまま、「疲れてるだけ」と言った。
蓮は「そっか」と言った。
それだけだった。
蓮は立ち上がって、「お風呂入ってくる」と言った。
自分でシャンプーを取りに行って、浴室のドアを閉めた。
六歳が、一人でお風呂の準備をしていた。
私はテレビの音を聞いていた。
内容は何も入ってこなかった。
シャワーの音が始まった。
壁越しに、水が床を叩く音がした。
蓮が鼻歌を歌っていた。
音程の外れた、知らない歌だった。
その背中を見たとき、決めた。
小さかった。
当たり前だが、六歳の背中だった。
タオルを頭にかけたまま立ち上がった、その背中が。
でも小さいのに、どこか大きかった。
「そっか」と言って引き下がった、その一言の重さが、背中に乗っているように見えた。
この子はいつから、こんなふうになったのか。
察して、聞いて、引き下がる。
母親の「疲れてるだけ」を、疑わずに受け取る。
六歳がそれをする。
私が教えたわけではなかった。
ただ、私と二人で暮らしてきた時間が、蓮にそれを覚えさせた。
かわいそうだとは思わなかった。
申し訳ないとも、少し違った。
ただ、この子にはもっと子どもでいてほしかった。
母親の顔色より、砂場の山や恐竜の名前だけを考えていてほしかった。
その気持ちが、腹の底からゆっくりと上がってきた。
翌朝、蓮が起きてくる前に、私は話すことを決めた。
今日ではなかった。
でも近いうちに、話す。
その覚悟が、朝の台所に静かに落ちた。
蓮が起きてきた。
髪が寝癖でぐしゃぐしゃだった。
目を細めて、「おはよ」と言った。
私は「おはよ」と返して、蓮の頭に手を置いた。
くしゃくしゃと、一度だけ撫でた。
蓮が「やめてよー」と言って、笑った。
私も笑った。
今度は、作らなくても笑えた。
その笑顔がどこから来たのか、私にはわからなかった。
でも笑えた。
昨夜、何かが決まったから笑えたのか、それとも蓮の寝癖が本当におかしかったから笑えたのか。
どちらでもよかった。
笑えたなら、それでよかった。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。