登場人物
- 中村 さつき(なかむら さつき) 女性・34歳
主人公。スーパーのパートと夜の清掃業の掛け持ち。元夫とは3年前に離婚。感情を飲み込むことに慣れすぎている人。 - 中村 蓮(なかむら れん) 男性・6歳
息子。人懐っこくてよく笑う。母親の顔色を読むことを、少しずつ覚えてきている。
参観日は、木曜日だった。
シフト表を見たとき、私は三秒だけ考えて、目を逸らした。
木曜の午前は入れ替わりのきかないポジションだった。
誰かに頼めなくはなかった。
でも頼むための言葉を探しているうちに、締め切りが過ぎた。
蓮には「お母さん、今日行けないかも」と伝えた。
蓮は「ふーん」と言って、ランドセルを背負った。
その日の夜、蓮が帰ってきた。
玄関でランドセルを下ろしながら、「今日ねえ、お弁当みんなで食べたんだよ」と言った。
遠足でもないのに、と私は思った。
「なんで」と聞くと、「先生が急に言ったの」と蓮が言った。
胃のあたりが、冷えた。
連絡帳を開いた。
木曜日のページに、担任の字で書いてあった。
「来週の参観日は、お子さんとお弁当を食べる時間を設けます。
ご準備をお願いします」。
先週の欄だった。
私はそのページを開いた記憶がなかった。
「パンおいしかったよ」と蓮が言った。
台所から私の顔を見て、笑っていた。
「購買のカレーパン、はじめて食べた」
「よかった」と私は言った。
蓮が寝てから、連絡帳をもう一度読んだ。
蛍光灯の下で、一行ずつ読んだ。
木曜日のページだけではなかった。
その前の週も、その前も、読んでいない日があった。
仕事から帰ってきて、夕飯を作って、蓮を風呂に入れて、洗濯を回して、気づいたら蓮より先に眠っていた夜が、何度もあった。
隣の子の弁当箱に、何が入っていたか。
蓮は見たか。
何か思ったか。
帰ってきたとき、蓮は笑っていた。
カレーパンがおいしかったと言った。
でもその笑顔の前に、何があったかを私は知らなかった。
知る方法がなかった。
蓮は何も言わなかった。
言わなかったことが、言ったことよりずっと重く、部屋に残っていた。
この子はいつから、私に気を遣うようになったのか。
六歳が、母親の顔色を読んで、「パンおいしかったよ」と言う。
それは本当においしかったのかもしれない。
でも私には、その言葉が蓮の優しさに見えた。
六歳の子どもが持つには、重すぎる優しさだった。
連絡帳を閉じた。
部屋が静かだった。
冷蔵庫の音がしていた。
外で風が鳴った。
アパートの壁が薄いから、隣の部屋のテレビの音が微かに届いた。
笑い声のある番組だった。
疲れた、とは思わなかった。
終わりにしたい、と思った。
育てることを、ではない。
この綱渡りを、終わりにしたい。
自分の手取りと蓮の給食費と家賃と光熱費を頭の中で足し引きしながら、連絡帳を読み忘れながら、笑えない朝を笑ってごまかしながら続けてきた、この綱渡りを。
子どもの貧困、という言葉を、どこかで読んだことがあった。
自分のことだと思ったことは、一度もなかった。
蓮は今日もご飯を食べて、布団で眠っている。
でもその言葉が、今夜初めて、自分の輪郭に重なった。
里親、という言葉が浮かんだのは、そのあとだった。
浮かんで、すぐに沈んだ。
でも沈む前に、一瞬だけ、水面に出た。
それで十分だった。
その夜の私には、それで十分だった。
コメント
言の葉を届けるには入隊するか里に入る必要があります。