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合言葉を失った

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任務報告の型 : 里親の呼吸:葛藤の型

里親になるまでの迷い・葛藤

任務報告

六月の夜は、蒸し暑かった。

ユイが玄関に立ったとき、私は靴を揃えることしかできなかった。

六歳の女の子は、花柄のボストンバッグを両手で抱えて、部屋の中を見ていた。

見ているというより、測っていた。

この場所が安全かどうかを、小さな目で静かに確かめていた。

「入って入って、靴脱いでいいよ」

ミオが膝をついて目線を合わせた。

二十六歳の女が、初めて会う子どもにそうやって笑えることを、私は七年間隣で見てきた。

私にはできない。

二十七歳になった今も、できない。

ユイはゆっくり靴を脱いで、部屋に入った。

夕食はミオが作った。

鶏の照り焼き、きゅうりの浅漬け、豆腐の味噌汁。

ミオはカフェの店長をしながら料理の腕を磨いてきた。

今夜は特別に力が入っていた。

醤油とみりんの匂いが部屋に満ちて、私はその匂いを嗅ぎながら、テーブルを拭いた。

三人で食卓を囲んだ。

ミオがよくしゃべった。

好きな食べ物のこと、近くに川があること、週末に一緒に行けたらいいねということ。

ユイは短くうなずいた。

箸はほとんど動かなかった。

照り焼きを一口、味噌汁を二口。

それだけだった。

食後、ミオが皿を重ねていると、ユイが言った。

「前のおうちのごはん、食べたい」
台所の水音が止まった。

ミオがユイを見た。

「どんなごはん?」と聞いた。

ユイはしばらく黙っていた。

それから小さく言った。

「……卵焼き」
それだけだった。

ユイはそれ以上話さなかった。

ミオは「そっか」と言って、また皿を洗い始めた。

水の音が戻った。

私はテーブルの前に座ったまま、動けなかった。

ユイが寝てから、日記を開いた。

同性愛カップルとしてLGBTの里親になることを決めたのは、二年前だった。

申請のたびに書類を書き直して、面談のたびに自分たちの関係を説明した。

二十代の女性同士が里親になれるのかと、何度も不安になった。

それでも進んできたのは、ミオが「やってみよう」と言い続けたからだ。

今夜、私が一番重く感じたのは、そのことではなかった。

ユイが「卵焼き」と言ったときの顔を、何度も思い返した。

泣いていなかった。

怒っていなかった。

ただ、遠くを見ていた。

六歳の子どもが、遠くを見るときの顔を、私は今夜初めて正面から見た。

この子には、帰りたい場所の味がある。

LGBTの同性愛カップルである私たちが里親として何をすべきか、今夜はまだわからない。

ただ、あの卵焼きの味だけは、消してはいけないと思った。

消すことも、できないと思った。

窓の外で、雨が降り始めた。

ユイの部屋の電気は、まだついていた。

任務報告

保護者席は、校庭の端に白いパイプ椅子が並んでいた。

ノブと二人、真ん中あたりに座った。

左隣は母親が一人でビデオカメラを構えていた。

右隣は祖父母らしき老夫婦が、お茶を回し飲みしていた。

誰も私たちを見なかった。

見ないことで、見ていた。

五十四歳の男は、その種類の視線の避け方を、長い年月をかけて覚えてきた。

競技が始まった。

アナウンスが響くたびに、保護者席がざわついた。

子どもの名前を呼ぶ声、手を叩く音、スマートフォンを構える腕。

秋の空気は乾いていて、運動場の砂埃が風に乗った。

私はプログラムを膝の上に置いて、校庭を見ていた。

徒競走は午前の最後だった。

三年生の列にショウがいた。

白い帽子をかぶって、スタートラインに並んでいた。

遠くて表情は読めなかった。

ピストルが鳴った。

ショウは速かった。

最初の十メートルで前に出て、そのまま誰にも追いつかせなかった。

ゴールテープを切った瞬間、ノブが「おお」と短く言った。

私は何も言わなかった。

言葉が出てくる前に、ショウが保護者席を見た。

目が合った。

一秒か、二秒か。

ショウはすぐに視線を外して、列に戻っていった。

それだけだった。

その一瞬に何があったのか、午後の競技の間もずっと考えていた。

確認だったのか。

来ているかどうか、確かめたかっただけなのか。

それとも、もっと別の何かだったのか。

答えを持たないまま、閉会式を聞いた。

帰り道、三人で並んで歩いた。

ノブが「速かったな、一番だったぞ」と言った。

ショウは「うん」と言った。

私は黙って歩いた。

言葉が見つからなかった。

運動会の帰り道に、五十四歳の男が八歳の子どもにかける言葉を、私は持っていなかった。

家に帰って、ショウが部屋に戻った。

私は台所でお茶を入れた。

湯呑みを両手で持って、廊下に出たとき、ショウの部屋の前を通った。

ドアが少し開いていた。

隙間から声が聞こえた。

「一番だった」
誰かに話しかけているわけではなかった。

ただ、自分に言い聞かせるように。

あるいは、誰かに報告するように。

小さく、確かめるように。

私はその場に立ったまま、お茶が冷めていくのを感じていた。

言いたかったのだ、あの子は。

誰かに。

一番だったと。

その誰かに、私はまだなれていない。

なれているのかどうか、今夜はまだわからない。

任務報告

九月の終わり、ショウが学校から持ち帰ったプリントの束の中に、運動会の案内が混じっていた。

私はそれをダイニングテーブルで広げた。

「保護者席:お二人まで」という文字が、太いゴシック体で印刷されていた。

五十四歳の男が、その一行を二度読んだ。

夕食の片付けをしていたノブに見せると、五十二歳の男は「行くでしょ、当然」と言って、また皿を拭き始めた。

私たちが同性愛者であることを、ノブはいつもこうやって、問題の外に置く。

それが頼もしいときと、少し羨ましいときがある。

今夜は両方だった。

ショウに「運動会、行くよ」と伝えたのはノブだった。

八歳の男の子は、テレビを見たまま「来なくていいよ」と言った。

声に棘はなかった。

ただ、平らだった。

私はその平らさの底に何があるのか、夜の間ずっと考えた。

遠慮なのか。

恥ずかしいのか。

それとも、LGBTの里親二人が保護者席に並ぶことで、何か傷つくことが起きると、八歳がすでに計算しているのか。

答えは出なかった。

出ないまま、プリントに名前を書いた。

タカシ。

ノブ。

ペンを走らせながら、来てよかったのかどうか、まだわからないと思っていた。

当日の朝、ショウは七時前に家を出た。

私たちより一時間早かった。

玄関で靴を履きながら、こちらを一度も見なかった。

扉が閉まって、足音が階段を降りていく音を、私はダイニングで聞いていた。

会場に着くと、校庭はもう家族連れで埋まっていた。

秋の日差しが白く、運動場の砂が光っていた。

どこかで焼きそばを作る匂いがした。

母親と父親のペアが、シートを広げてお茶を注いでいた。

入口で受付の係員に声をかけられた。

「お子さんのお名前は?」

「篠原ショウです」

係員はリストを指で辿った。

私は息を止めていた。

「篠原ショウくんですね、どうぞ」

それだけだった。

係員は次の家族に向き直った。

私は五十四年生きてきて、他人にそう言ってもらうことを、こんなに待っていたのかと思った。

同性愛者である私たちが、誰かの保護者として受け付けに名前を呼ばれる。

それだけのことに、足が少し震えた。

ノブが隣で「いい天気だな」と言った。

空を見上げていた。

私たちは並んで保護者席に向かった。

五十四歳と五十二歳の男が、秋の校庭を歩いた。

周囲からいくつかの視線を感じた。

感じながら、歩いた。

来てよかったのかどうか、まだわからなかった。

でも今日、ここに席がある。

それだけは確かだった。

任務報告

朝、カイが登校前にランドセルを背負いながら言いかけた。

「あの……」

止まった。私はコートのボタンを留めながら、続きを待った。カイは一度口を閉じて、それからもう一度開いた。

「サチさん、今日お弁当いる?」

遠足は来週だった。だからお弁当はいらない。

「いらないよ」と答えると、カイは「そっか」と言って玄関を出た。

扉が閉まって、足音が階段を降りていった。私はしばらくそこに立っていた。

「あの」から「サチさん」に、言い直した。その数秒を、ずっと見ていた。

夜、ユキが寝たあとで日記を開いた。今日こそ、ちゃんと書こうと思った。

カイがこの家に来てから、私は「あの」という言葉を何十回聞いただろう。

最初は空白だと思っていた。名前がない場所、呼び方が決まらない空白。

だからその言葉が聞こえるたびに、どこかで息を詰めていた。

でも今日、カイが「あの」と言いかけて止まった瞬間を見て、初めてわかった気がした。

あの言葉は、空白じゃなかった。

カイはずっと、誰かを呼ぼうとしていた。

名前がわからないまま、呼び方が見つからないまま、それでも「あの」と言って、こちらに手を伸ばしていた。

牛乳パックを持って振り返ったときも、膝から血を流しながら処置が終わったあとも、ずっと。

私はその手に、気づくのが遅かった。

元教員として、三百人以上の子どもと関わってきた。

子どもの言葉を読むのは得意だと思っていた。でもこの七歳の男の子の「あの」に、三ヶ月かかった。

ペンを持ったまま、窓の外を見た。夜の住宅街が静かだった。カイの部屋の電気は、もう消えていた。

最後に一行だけ書いた。

この子が「あの」と言うたびに、私はちゃんと呼ばれていたんだと思う。

任務報告

今日、カイが来た。

七歳の男の子は、玄関に立ったまま動かなかった。

紺色のリュックを両手で抱えて、床を見ていた。

ユキが「待ってたよ、入って入って」と言いながら膝をついて目線を合わせた。

四十一歳の女が、迷わずそうできることを、私は少し羨ましいと思った。

私は突っ立ったまま、何も言えなかった。

夕食はユキが作ったカレーだった。甘口にしてあった。

カイはスプーンを小さく動かしながら、ほとんど顔を上げなかった。ユキがしゃべり続けた。

好きな食べ物のこと、近くに公園があること、明日は一緒に散歩しようか、ということ。

カイは短くうなずいた。私は味噌汁を飲んだ。口の中がやけに乾いていた。

食後、ユキが洗い物をしている間、カイとリビングに二人になった。

カイはソファの端に座って、膝の上にリュックを乗せたままだった。

まだ、置く場所が決まっていないのだと思った。私も、何をすればいいか決まっていなかった。
しばらくして、カイが顔を上げた。
「あの……」
私を見ていた。続きを待った。でも続きは来なかった。カイは一度口を閉じて、また床を見た。

「うん」と私は言った。それしか出てこなかった。

寝室に戻ってから、日記を開いた。ペンを持ったまま、しばらく何も書けなかった。

三百人以上の子どもと向き合ってきた四十三年間が、今夜だけ、何の役にも立たなかった。

窓の外で風が鳴った。カイの部屋の電気は、まだついていた。

やっと一行だけ書いた。

今日、この子は私を「あの」と呼んだ。私にはまだ、名前がない。

任務報告

夕食が終わって、ソウがリビングでハナに話しかけていた。

私は一人で皿を洗っていた。

水の音を聞きながら、私は今夜こそ何か言うべきかと考えていた。

でも何をどう切り出せばいいか、昨日も今日も、言葉は出てこないままだった。

フライパンをすすいで、スポンジを絞って、皿を拭く。

その繰り返しの中に、気配がした。

ハナが台所に入ってきて、私の隣に立った。

何も言わなかった。

私も何も言わなかった。

水の音だけが続いた。

三十秒か、一分か、それくらい経ったころ、ハナがぽつりと言った。

「ねえ。
うちってふつうの家族じゃないの?」

私は手を止めなかった。

グラスの内側をスポンジで丁寧に回しながら、少し間をおいた。

「どうしてそう思った?」

ハナが話した。

学校からの帰り道、ミサちゃんに聞かれたこと。

ふつうだよと答えたこと。

でもそれが本当かどうか、ずっとわからなかったこと。

私は水を流したまま、全部聞いた。

話し終わったとき、私は水を止めた。

タオルで手を拭いて、ハナの隣にしゃがんだ。

九歳の目と、三十二歳の目が、同じ高さになった。

「ふつうじゃないかもしれない」と私は言った。

「俺とソウさんは、男どうしで一緒に暮らしてる。

それは、世間でいうふつうとは違う」

ハナは黙って聞いていた。

「でも」と私は続けた。

「ふつうって、誰が決めるんだろうな」

答えにならないとわかっていた。

もっとうまい言葉があるのかもしれない。

でもこれが、今夜自分の言える正直だった。

ハナはしばらく黙っていた。

それから小さくうなずいた。

何かが解決したわけじゃない。

でもその小さなうなずきが、私の胸の奥に、静かに落ちた。

リビングからソウの「どうしたの二人とも」という声がした。

私は立ち上がって「なんでもない」と言った。

ハナも、少しだけ口の端を動かした。

任務報告

玉ねぎを炒める音だけが、部屋に満ちていた。

私は三十二歳になるまで、誰かのために夕食を作るとき、こんなに手が緊張したことはなかった。

隣の部屋では、ソウが九歳の女の子に話しかけている声がする。よく通る声だ。

初めて会う人間にも、ソウはああして笑えるのだと、十年近く隣にいても、少し羨ましいと思う。

「ハナちゃん、好きな食べ物とかある?」

「……べつに」

「そっかそっか。じゃあ嫌いなものは?」

返事が聞こえなかった。私は黙って火を弱めた。

三人で食卓を囲んだのは、七時を少し過ぎたころだった。

肉じゃがと、味噌汁と、白いご飯。ハナは椅子に浅く座って、最初の一口をゆっくり口に運んだ。

私はそれを、見ていないふりをして見ていた。小さな手が、箸を握っている。

ソウがよくしゃべった。学校のこと、近所のこと、自分が子どものころ好きだったテレビのこと。

三十一歳の男が、九歳の女の子に向かって一生懸命に話している。私は黙って味噌汁を飲んだ。

食事が終わると、ハナは「ごちそうさまでした」と小さく言って、自分の皿を台所に運んだ。

教えてもいないのに。私は「ありがとう」と言いそびれた。

ハナが布団に入ったあと、二人はソファに並んで座った。男どうしで十年、このソファに座ってきた。

今夜はその間に、九歳の子どもの気配がまだ残っていた。

「うまくいくかな」とソウが言った。

私は答えなかった。台所に目をやると、三枚の皿が重なって置いてあった。自分たちの二枚に、もう一枚。

それだけのことが、今夜はやけに重く見えた。

窓の外で、風が鳴った。

任務報告

離婚して3年が経った頃、ふとした夜に里親制度のことを調べ始めた。

子どもが欲しいという気持ちは以前からあったが、再婚を前提にしたくはなかった。

誰かと一緒でなければできないことと、一人でもできることの境界線を、その頃よく考えていた。

里親制度のページを開いたのは、そういう夜だった。

最初に気になったのは、単純な疑問だった。シングルでも里親になれるのか。

調べると、法律上は婚姻の有無は問わないと分かった。ただ、実際に一人で子どもを預かっている人の話がなかなか見つからなかった。

モデルケースが見えない中で、自分がその最初の一歩を踏み出せるのかどうか、しばらく迷った。

児童相談所に相談の電話を入れたのは、調べ始めてから半年後だった。

担当者は「シングルの方も里親登録されています」と当たり前のように言った。

その一言で、ずっと感じていた「例外的な申請をしているのかもしれない」という居心地の悪さが消えた。

周囲からは心配する声もあった。

「一人で大丈夫?」「何かあったときに頼れる人はいるの?」仕事をしながら、子どもの急な呼び出しにも対応できるのか。

体調を崩したときはどうするのか。確かにその不安は本物だった。

ただ、一人であることには別の側面もあった。夫婦間で方針が食い違うことがない。

誰かと合意を取らなくても、自分の判断で動ける。子どもへの接し方も、ルールの決め方も、全部自分で決められる。

その自由さが、むしろ子どもにとってシンプルで分かりやすい環境をつくれるのではないかと、次第に思えるようになった。

委託されたのは小学1年生の女の子だった。人見知りが強く、最初の一週間はほとんど声を出さなかった。

食事のときも、お風呂のときも、こちらの様子をじっと観察しているようだった。

二人きりの家は、静かだった。それが心地よい静けさなのか、張り詰めた静けさなのか、最初は判断できなかった。

仕事から帰って夕食を作り、二人で食べて、宿題を見て、寝かしつける。その繰り返しの中で、少しずつ会話が生まれていった。

一人であることが、むしろ良かった場面もあった。二人きりだからこそ、子どもの小さな変化に気づきやすかった。

今日は少し多くしゃべった、今日は自分から手を洗いに行った、今日は笑った。

そういう細かな変化を、誰かと共有しなくても自分の中で積み重ねていけた。

最もきつかったのは、子どもが高熱を出した夜だった。38度を超えて、夜中に何度も目が覚める。

氷枕を取り替えて、水を飲ませて、体温を測る。それを繰り返しながら、ふと「もし私が倒れたら」と考えた。

一人であることの孤独が、その夜だけ重くのしかかった。翌朝、熱が下がったとき、子どもが「ありがとう」と言った。

か細い声だったが、はっきり聞こえた。それまで「ありがとう」を自分から言ったことがなかった子だった。

しんどかった夜の分が、その一言で報われたような気がした。

委託から8ヶ月が経った頃、子どもが「お母さん」と呼んだ。

それまでは名前で呼んでいた。自分もそれを自然なことだと思っていたし、無理に呼ばせようとも思っていなかった。

その日は学校から帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら、何気なく「お母さん、ただいま」と言った。

子ども自身も、少し驚いたような顔をした。こちらも何も言えなかった。ただ「おかえり」と返した。それだけだった。

その夜、子どもが眠った後に一人で泣いた。誰かに報告する相手もいなかったが、それでよかった。あの瞬間は、二人だけのものだったから。

職場には、直属の上司にだけ里親であることを伝えた。

急な発熱や学校行事での早退があることを事前に話しておかないと、子どもに何かあったときに動けない。

上司は「分かった、できる範囲で調整しよう」と言ってくれた。それ以上でも以下でもなかったが、十分だった。

一番困ったのは、学童の問題だった。里親家庭であることを学童の担当者に伝えるかどうかで悩んだ。

結局、事情を説明した。対応は思っていたより丁寧で、子どもへの余計な詮索もなかった。

事前に伝えることへの恐れが、実際より大きかったと後から感じた。

一人で里親をすることは、想像より孤独ではなかった。もちろん誰かと話し合えたらと思う場面もあった。

しかし一人だからこそ、子どもと真正面から向き合う時間が持てたとも思う。

里親を考えているシングルの人に伝えたいのは、「パートナーがいないこと」は里親になれない理由にはならないということだ。

むしろ、二人でなくとも家庭はつくれる。大切なのは人数ではなく、その子どもの安心できる場所になれるかどうかだと、今は思っている。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「一人でも、ちゃんとできるよ」と言いたい。

任務報告

40代の頃に見たテレビのドキュメンタリーが、最初のきっかけだった。

児童養護施設で暮らす子どもたちの特集で、その中で里親制度が紹介されていた。

言葉は聞いたことがあっても、具体的な仕組みは知らなかった。

番組を見た後、自治体のサイトやパンフレットを調べて、こういう形で子どもを受け入れている家庭が実際にあるのだと初めて実感した。

ただ、知ってすぐに動けたわけではなかった。

子育て経験があるとはいえ、事情を抱えた子どもを迎えることは普通の子育てとは違うと聞いていた。

自分たちに本当にできるのか。途中で自分が投げ出してしまったらどうなるのか。その怖さはなかなか消えなかった。

家族の生活が大きく変わることへの心配もあった。周囲にどう説明すればいいのかも分からなかった。

知っているだけで動けない、そういう時間がしばらく続いた。

動き出すきっかけになったのは、自治体の里親説明会への参加だった。

実際に里親をしている人の話を聞く機会があり、きれいな話ばかりではなく大変な面も率直に語ってくれた。

その正直さが、かえって気持ちを楽にした。「特別な人だけがやることではないのかもしれない」と思えた。

完璧でなくても関わることはできるのではないか。まずは研修を受けてみようと決めたのは、その帰り道のことだった。

子どもが来た最初の頃は、想像していたより距離があった。

来てすぐに打ち解けるような雰囲気ではなく、どこか警戒されている感じがあった。

食事を用意してもほとんど手をつけない。話しかけても短い返事だけが返ってくる。

どう接するのがいいのか分からず、戸惑う日が続いた。家の中に静かな空気が漂っていた。

自分のやり方が間違っているのではないかと考えることもあった。

最もしんどかったのは、夜になると不安定になる時期だった。布団に入ると急に泣き出す。

理由を聞いても、はっきり言葉にできない様子だった。こちらもどうしていいか分からず、ただそばに座って背中をさすることしかできなかった。

それが何日も続くと、正直気持ちが沈んでいった。夫婦でどう接するべきか話し合った夜も何度かあった。

答えは出なかった。ただ、その子のそばにいることだけを続けた。

変化は、小さな形でやってきた。

ある日、学校から帰ってきた子どもが、授業の出来事をぽつぽつと話してくれた。

それまで必要なこと以外ほとんど話さなかった。その変化に、少しだけ心の距離が縮まったのかもしれないと感じた。

大きな出来事ではなかった。ただその日を境に、少しずつ会話が増えていった。

関係というのは、劇的に変わるのではなく、こういう小さな日の積み重ねの先にあるのだと思う。

子どもが家を出た日は、感動的な場面にはならなかった。特別な言葉を交わすわけでもなく、少し照れたような様子で出ていった。こちらも、静かにそれを見送った。

帰った後に部屋を見たとき、急に空っぽに感じた。そこで初めて寂しさが込み上げてきた。

送り出した後の部屋の静けさというのは、なんとも言えないものがある。

振り返ると、よかったという気持ちと、簡単ではなかったという思いの両方がある。

もっと違う関わり方があったのではないかと考えることも今でもある。うまくできたことばかりではなかった。

それでも、あの時間が自分たちの生活の中にあったことは確かだ。無駄だったとは思っていない。

里親をしている間は、子どもの変化ばかり気にしていた。しかし後から振り返ると、自分の考え方もかなり変わっていた。

家庭の形は一つではないということ、人と距離を縮めるには時間が必要だということを、あの経験を通じて強く感じた。

里親を考えている人に伝えたいのは、里親は特別な人だけができるものではないということだ。

ただ、思っている以上に時間と気持ちを使うことは確かで、きれいな話だけを期待して始めると戸惑う場面も多い。

できるだけ多くの話を聞いてから考えてほしいと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、「完璧にやろうとしなくても大丈夫」と言いたい。

最初は正しいやり方を探そうとしてばかりいたが、実際には迷いながら関わっていくしかなかった。

うまくいかない日があっても、それだけで失敗とは限らない。今ならそう思う。

任務報告

不妊治療を断念したとき、次の選択肢として里親という道が視界に入ってきた。

妻が先に動いた。実際に里親経験のある人から話を聞く機会を得て、その話を自分も聞きに行った。

「やってみよう」と思ったのは、そのときだった。

血の繋がらない子どもを愛せるのか、という問いは最初からあった。自信があったわけではない。

ただ、話を聞いた後に残ったのは不安よりも、やってみなければ分からないという気持ちだった。

子どもが来て最初に戸惑ったのは、想定していなかったことだった。

男の子として迎えたはずなのに、仕草や雰囲気が女の子に近かった。

後から分かったことだが、施設にいた頃、周囲にいたのは女性ばかりだったという。

自然と女性的な振る舞いが身についていたのだろう。どう接すればいいのか、最初は戸惑った。

男の子として接するべきなのか、本人の自然な様子に合わせるべきなのか。答えを持たないまま、日々が始まった。

戸惑いはやがて、夫婦間の対立に発展した。

子どもの性別のあり方をどう受け止めるか。男性として見るのか、本人の自然な様子を女性的なものとして受け入れるのか。

二人の間で意見が合わなかった。どちらが正しいという話ではなかったが、同じ屋根の下で子どもに接する方針が一致しないことは、じわじわと家の中の空気を重くした。

正解が見えないまま、それでも毎日は続いた。

子どもが小学校に上がってから、性別のミスマッチを理由にいじめが始まった。

子どもの側から見れば、自分のあり方を否定されているような日々だったはずだ。

そしてその苦しさを里父である自分に打ち明けたとき、自分は「その部分では助けられない」と伝えた。

性別のあり方そのものを肯定することは、自分には難しかった。

ただ、いじめは別の問題だと考えていた。誰かを傷つける行為は許されない。それは明確だった。学校に対して問題として訴え、対応を求めた。

子どもはおそらく、混乱したと思う。自分のあり方は認めてもらえないのに、いじめには怒ってくれる。その両方が同じ人から来ていた。

しかし時間をかけて、お互いがある理解に至った。

「助けられることと、そうではないことがある」ということを、二人の間で共有できた気がした。

それが関係の変わり目だった。見放されたのではなく、できることとできないことがあると、子どもが受け取ってくれたのだと思っている。

里子の実家庭の環境が回復したとき、子どもは実の両親のもとへ戻ることを選んだ。本当の親に会いたいと言った。

止める権利はないと、最初から覚悟していた。里親とはそういうものだと分かっていた。

ここでいう覚悟とは、子どもが戻ってくることはないという意味での覚悟だ。

その日が来たとき、覚悟通りに受け入れた。ただ、覚悟していたからといって、何も感じなかったわけではない。

今振り返ったとき、やってよかったと言い切れるかどうか、正直分からない。

子どもがいなくなったときの空虚感は、予想以上のものだった。あの空虚感を知ってしまうと、やるべきではなかったとも思えてくる。

しかし同時に、子どもがいる家庭というものを経験できたことへの幸福感も確かにある。子どもを育てることに、使命のようなものを感じた時期もあった。

空虚感と満足感が、矛盾したまま同じ場所に存在している。それがこの経験の正直な後味だ。

里親を考えている人に伝えたいのは、責任についてだ。

血が繋がっていないからといって、責任がなくなるわけではない。

学校への関与も、日常の判断も、すべて里親として引き受けることになる。

その責任の重さを、事前に理解しておくことが大切だと思う。

里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたい。

「何事も経験で、よい経験であれ悪い経験であれ、子どもを通して得た経験は忘れない経験になる」と。