里親になるまでの迷い・葛藤
外国にルーツを持つ子どもの里親養育については、文化的背景、言語、アイデンティティの形成など
不妊治療がうまくいかず、落ち込んでいた私に夫が言った。「養子縁組、調べてみたんだけど」と。
インターネットで調べた夫が里親制度のことを教えてくれたのが、最初のきっかけだった。
里親の体験談というと、温かい再生の物語として語られることが多い。
しかし、そういうまとまりのいい話ではない。
ADHD、学校への行き渋り、家庭内暴力、万引き、あらゆるトラブルを経験し、里親自身が神経症になって病院に通い続け、それでも「結論が出ない」。
里親制度の内容を調べていくうちに、登録までの過程の長さが目についた。
研修に何度も通わなければならない。面接もある。「少し面倒だな」というのが正直な感想だった。
それでも動き出せたのは、インターネットで読んだ里親経験者の体験談がきっかけだった。
「迷わずに手を挙げてほしい」というその言葉が、背中を押してくれた。
完璧な準備が整ってからではなく、迷いがあっても一歩踏み出すことに意味がある、ということを、その言葉は伝えてくれた。
委託の前には、施設での交流期間がある。
この家庭でやっていけるかどうかを双方が確認する、およそ3ヶ月の期間だ。しかしその時期に、早くも「試し行動」が始まった。
試し行動とは、子どもが「この人たちは本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために起こす行動のことだ。
施設での交流中、子どもは面会に来た別の家庭のお母さんに近づき、膝の上に乗ったり、遊んでもらったりした。こちらを試すような行動だった。
その様子を見ていた別の家庭の夫から、こんな言葉をかけられた。「少し怒り過ぎじゃないですか」。
昭和に育った感覚では、悪いことをしたら「コラ」と言って当然だった。しかしそれが今の子育てとは違うと言われた。
確かに言うことを聞かないその都度注意はしていたが、他人からそう指摘されて相当落ち込んだ。
自信をなくしかけながらも、交流期間を終えて委託に進んだ。
子どもが家に来てからの最初の頃は、とにかく夜泣きが激しかった。
夜9時頃から延々と3時間以上泣き叫ぶ。近所から「虐待ではないか」と疑われるほどの声だった。
朝目が覚めた瞬間に「お散歩」と言い出し、「あとでね」と言っただけで癇癪を起こした。
木のおもちゃが飛んでくる。ふすまに穴が開く。体に当たって痛い。
「猛獣を育てているみたい」と感じるほどの恐怖感があったと、当時を振り返る。
一番しんどかったのは、外出先でのことだった。
遊びに連れて行けば帰りたがらない。自転車の後ろに乗せると左右に暴れて転びそうになる。
スーパーに連れて行くとひっくり返って泣き叫ぶ。
実の子どもの「イヤイヤ期」であれば、ある程度は割り切れる。
しかし里親と子どもの間では、まだ親子関係が十分に築かれていない時期がある。
その状態でどう注意するか、叱ってはいけないのか、どの程度まで許容すべきなのか。判断の基準が分からず、途方に暮れた。
里親家庭における「しつけ」の難しさは、多くの里親が直面する問題だ。
実の親子でも難しい子どもへの関わり方が、関係性が築かれる前の段階ではさらに難しくなる。
こうした局面では、担当の児童福祉司や里親支援専門相談員(里親支援ソーシャルワーカー)に相談することが助けになる場合が多い。
近所への説明については、他の里親家庭とは少し異なる状況があった。
この子どもは外国にルーツを持つハーフだった。顔を見れば分かる。
隠してもしょうがないと判断し、家に来てすぐに近所の人に正直に伝えた。
外国にルーツを持つ子どもの里親養育については、文化的背景、言語、アイデンティティの形成など、特有の課題が生じることがある。
ルーツへの理解や、必要に応じた文化的サポートも里親の役割の一部になる場合がある。
職場については、急な欠勤や呼び出しの可能性があることを考慮し、上司には状況を説明した。
関係が変わったと感じた瞬間は、地味なものだった。
悪いことをしたとき、子どもがぽつりと「ごめんなさい」と言った。ただそれだけだ。
しかしそれまでは、謝るという行動がなかった。その一言が出たとき、「あ、変わったな」と感じた。
関係性の変化は、大きな出来事ではなく小さな言動の中に現れる。
それを見逃さないためにも、日々の細かな変化に目を向け続けることが里親には求められる。
やがて、子どもの行動がエスカレートしていった。言うことを聞かない、トラブルが続く。
専門機関に相談し調べてもらったところ、ADHDの診断が下りた。
ADHDとは注意欠如・多動症のことで、注意力の持続が難しかったり衝動的な行動が出やすかったりする発達障害の一つだ。
適切な支援と環境の調整によって生活のしやすさは変わるが、それには時間と継続的な関わりが必要になる。
学校への行き渋りが始まった。家庭内での暴力があった。万引きなど、社会的なトラブルも起きた。
里親である自分自身が神経症になり、病院に通うようになった。
高校で寮に入るために家を出た日、別れ際にじんとした。
「このまま高校を卒業して一人暮らしを始めてお別れになるのかな」と思った。
しかし4ヶ月で中退して戻ってきた。
20歳になった今も、色々なことが続いている。
今振り返って、里親をやってよかったかと問われれば、「フクザツ」としか言いようがない。
大変だったことは間違いない。自分が病院に通うほど追い詰められた。それでも、楽しかった思い出もある。結論は出ない。
この「結論が出ない」という正直さは、里親という経験の複雑さをそのまま表している。
温かい再生の物語として完結しない経験を、それでも続けてきた。それ自体が、一つの事実だ。
里親を考えている人に最も伝えたいことは、「真実告知」の問題ではないという。
真実告知とは、里子や養子に対して自分の出自や里親家庭であることを伝えることだ。
多くの里親がその伝え方やタイミングに悩む。しかし、それよりも大切なことがある。
「ありのままの子どもを受け入れられるか」ということだ。
里子がみんな親孝行してくれるわけではない。期待した関係にならないこともある。
それでも受け入れる覚悟を持てるかどうか。そこが問われるのだと、この20年近い経験を経て言い切る。
里親になる前の自分に一言かけるとしたら「大変だよ」。それが、この経験を通じて出てくる正直な言葉だ。
里親体験談の多くは、困難を乗り越えた後の温かい結末を描く。しかし現実には、結末のない話も、「フクザツ」としか言えない経験も存在する。
ADHD、家庭内暴力、里親自身のメンタルヘルスの悪化。
こうした現実を正直に語ることは、これから里親を考える人にとっても、今まさに困難の中にいる里親にとっても、重要な情報になる。
「自分だけが大変なわけではない」という感覚が、孤立を防ぐからだ。
里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。
説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。
また、現在里親として困難な状況にある方は、里親支援専門相談員(里親支援ソーシャルワーカー)や里親会への相談も選択肢の一つだ。
一人で抱え込まないことが、子どもを支え続けるための基盤になる。
最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。
数年間続けた不妊治療が、結果を出せないまま終わりを迎えようとしていた。
夫婦で今後の人生をどう歩むかを話し合っていたある日、インターネットで養子縁組や里親制度に関する記事を偶然目にした。
それまで里親という言葉を知ってはいたが、自分たちの現実的な選択肢として考えたことは一度もなかった。その記事が、扉を開く最初のきっかけになった。
不妊治療と里親制度。この二つを結びつけて考える夫婦は、実は少なくない。
治療に区切りをつけた後、「子どもを育てるという経験を諦めたくない」という思いが里親という道へと向かわせることがある。
制度を知ってからも、すぐに行動に移すことはできなかった。ためらいの理由は一つではなかった。
まず、「血の繋がらない子どもを、本当の我が子のように愛せるのか」という根本的な問いが頭から離れなかった。
愛情というものは、育てる中で生まれるとも言われる。しかしそれが本当かどうかは、やってみるまで分からない。
もし愛せなかったとき、子どもを傷つけることになるのではないか。その恐れは、軽くあしらえるものではなかった。
もう一つは、思春期を迎えたときの接し方への不安だった。
乳幼児期や小学生の頃とは異なり、思春期には自我が強く出る。
里親と子どもという関係性の中で、その時期をどう乗り越えられるのか、想像するだけで不安になった。
そして三つ目が、親族からの目線という問題だ。
里親制度はまだ社会的な認知が十分に広まっているとは言えず、「なぜ他人の子を育てるのか」「何か事情があるのか」という反応が親族から返ってくることを恐れていた。
世間体というものは、決して軽視できる問題ではない。
動き出すきっかけになったのは、自治体が主催する里親制度の説明会への参加だった。
実際に里親として活動している人の話を直接聞く機会があり、その言葉がこれまでの視点を大きく変えた。
「完璧な親である必要はない。今、助けを必要としている子の居場所になるということだ」
この考え方に、救われたという。
それまでは「里親として立派な親にならなければならない」という重圧の中にいた。
しかし里親とは、完成された親子関係を最初から提供することではない。
居場所を作ること、一緒に時間を重ねること、それが出発点なのだということを、説明会で初めて実感として受け取れた。
夫婦で話し合い、一歩踏み出す決意をしたのはその直後だった。
里親説明会は、各都道府県・政令市の児童相談所や里親支援機関が定期的に開催している。
愛知県・名古屋市でも複数の窓口が案内を行っており、参加に際して申請や登録の義務は一切ない。
「話を聞くだけ」という気持ちで参加できる場として、検討の入り口として活用できる。
子どもが家に来た最初の頃、家の中は常に張り詰めた空気だった。お互いが緊張していた。
しかし最も戸惑わせたのは、子ども自身の行動だった。
子どもは非常に「良い子」を演じようとしていた。
わがままを一切言わず、自分の感情をまったく外に出さなかった。
一見すると問題がないように見えるが、それは逆に不自然だった。
子どもらしい自己主張がない、感情の揺れがない、その静けさが、心の距離の遠さを示していた。
どうすれば心の距離を縮められるのか分からず、暗中模索の状態が続いた。
「良い子」を演じる背景には、これまでの環境の中で「感情を出すことが危険だった」という経験が潜んでいることもある。
それを理解できたのは、後になってからだった。
最もきつかったのは、子どもの「試し行動」が始まった時期だった。
試し行動とは、子どもが「この人たちは本当に自分を受け入れてくれるのか」を確かめるために起こす問題行動のことだ。
大切なものをわざと壊す、激しく泣き叫んで暴れる。そういった行動が数ヶ月にわたって続いた。
精神的にも肉体的にも限界に近い状態で迎えたある夜中、夫婦でリビングに座り、泣きながら話し合った。
「私たちの選択は、間違っていたのではないか」。
その言葉を二人で交わした夜が、この経験を通じて最も過酷な場面だったという。
試し行動は、心理的に安全な環境に慣れてきたことのサインだとも言われる。
しかし渦中にいるときに、そうした知識は気持ちを楽にはしてくれない。
こうした局面を一人で抱え込まないためにも、里親支援機関や里親会への相談窓口を事前に把握しておくことが重要だ。
関係が変わったと感じた瞬間は、特別な出来事ではなかった。
ある朝の食卓で、子どもが何気なくこう言った。「明日のおやつは何がいいかな」。
ただそれだけの言葉だ。しかしその言葉の意味は、軽くなかった。
この家での生活を「一時的なもの」ではなく、続いていく日常として認識し始めているということ。
明日もここにいる、という感覚が子どもの中に芽生えていることを、その言葉は示していた。
張り詰めていた心の糸が、少しだけ解けた瞬間だった。
関係性というのは、ある日突然変わるのではない。
一緒に食事をする、眠れない夜を隣で過ごす、何気ない会話を積み重ねる。
そういう時間の蓄積の先に、ある朝ふと気づいたら景色が変わっている、そういうものだ。
周囲への説明は、慎重に進めた。
近所の人には「親戚の子を預かることになった」とだけ伝え、詳しい説明はしなかった。
子ども自身に余計な関心や詮索が向くことを避けるためだ。
職場には、急な体調不良などで早退や欠勤が発生する可能性があることを考慮し、上司にだけ里親制度を利用していることを伝え、理解と協力を求めた。同僚には特に話さなかった。
里親であることをどこまで開示するかは、非常に個人的な判断であり、正解はない。大切なのは、周囲の反応に自分が疲弊しないよう、情報の出し方を自分でコントロールすることだ。
子どもが実親のもとへ戻る日が決まったとき、心にぽっかりと大きな穴が空いたような喪失感があった。
玄関で見送り、空になった子ども部屋を見たとき、涙が止まらなかった。
しかし同時に、もう一つの感情も確かにあった。「この子が幸せに暮らせますように」という、祈るような清々しい気持ちだ。
悲しさと清々しさが、矛盾しながら共存していた。それが里親という経験の、正直な終わり方だったという。
子どもが家を出た後の喪失感は、里親経験者の多くが語る。
この感情は「里親としての失敗」ではなく、深く関わった証だ。
こうした感情を安心して話せる場として、里親経験者同士のコミュニティや、里親支援機関のカウンセリング窓口を活用することが助けになることがある。
正直に言えば、非常に複雑な経験だった。しかし、やってよかったと確信しているという。
子育ての大変さを通じて、自分自身の未熟さを知った。
血縁を超えた深い愛情の形があることを学んだ。それは人生において、何物にも代えがたい財産になったと感じている。
里親制度は、決して美談ばかりではない。
しかし、一人の子どもの人生に寄り添い、共に過ごした時間は、たとえ短い期間であっても、その子の心に確かな温もりを残せる。そう信じている。
里親を検討している人に最も伝えたいことは、「覚悟」よりも「一人で抱え込まないこと」だという。
自治体の担当者、里親支援機関のスタッフ、里親仲間、頼れる場所をあらかじめ見つけておくこと。
自分自身が心身ともに健康でいられる余裕を持つことが、子どもを支える力になる。
里親をしながら自分が壊れてしまっては、子どもを守ることはできない。
里親になる前の自分に一言かけるとしたら、こう言いたいという。
「そんなに肩肘を張らなくて大丈夫。子どもと一緒に、少しずつ親になっていけばいいんだから」
不妊治療の末に里親という道を選んだこの経験は、「血縁」や「理想の親」という概念を何度も問い直させてくれた。
完璧な親でなくていい。ただの同居人から始めてもいい。
子どもと一緒に、少しずつ親になっていく。その時間の積み重ねの中にこそ、里親という経験の本質があるのかもしれない。
里親制度に関心を持った方は、まず地域の児童相談所または里親支援機関に問い合わせることから始めてほしい。
説明会への参加だけなら、登録や申請の義務は一切ない。「話を聞くだけ」でいい。
別に、感謝してほしいわけじゃない。 そう思おうとした。 でも手の中のスポンジが、なんとなく重かった
今日も「ありがとう」は、なかった。
夕方、玉ねぎを炒める音がキッチンに広がっていた。
油の弾ける音、醤油を入れた瞬間の甘い煙。
私はそれを聞きながら、リビングのほうを何度か確認した。
彼女はソファに座って、ランドセルも下ろさないまま、窓の外をぼんやり見ていた。
8歳の背中は小さくて、でも妙に遠かった。
「ごはん、できたよ」
返事はなかった。
少しして、ランドセルをどさっと床に置く音だけが聞こえた。
テーブルに並べた皿を、彼女はひとつひとつ確認するように見た。
嫌いなものが入っていないか、確かめるみたいに。
「いただきます」を言って、箸を持って、黙って食べ始めた。
パートナーが「おいしいね」と言うと、彼女は小さくうなずいた。
私のほうは見なかった。
食器を洗いながら、泡の立つ音を聞いていた。
別に、感謝してほしいわけじゃない。
そう思おうとした。
でも手の中のスポンジが、なんとなく重かった。
委託されて3ヶ月が経つ。
LGBTのカップルが里親になることへの周囲の視線は、想像していたよりずっとやわらかかった。
担当の支援員さんは丁寧だったし、児童相談所の対応も思っていたより温かかった。
同性愛のカップルだからといって、特別に冷たくされた記憶はない。
それでも私たちは、どこかで「ちゃんとしなければ」と思い続けていた。
里親として、LGBTとして、この子に何かを証明しなければならないような気がして。
だから余計に、頑張ってしまっているのかもしれない。
お風呂の準備をして「入れるよ」と声をかけると、彼女は無言で立ち上がってドアを閉めた。
シャワーの音が壁越しに聞こえてきた。
水音はしばらく続いて、それからぴたりと止まった。
廊下に、シャンプーの甘い匂いが漂ってきた。
「慣れてないだけだよ」
パートナーはそう言って、私の肩に手を置いた。
温かかった。
でもその温かさが、少しだけ的外れに感じた。
慣れの話じゃない、たぶん。
うまく言葉にできないまま、私は「そうだね」と返した。
夜、彼女が眠ったあと、リビングに一人で座った。
テーブルの上に、彼女が使ったコップが残っていた。
麦茶の輪染みが、白いテーブルクロスにうっすらついていた。
私はそれをじっと見ていた。
拭こうとして、やめた。
