心が少しずつ開いていった記録
母親は施設への入所に同意したが、面会には一度も来なかった。
そらが生まれたのは、桜の花が散ったあとの、雨の多い春だった。
母親は当時二十三歳。父親については、出生届にも名前がなかった。
母は決して悪い人ではなかった、とそらは後にそう思うことになる。
ただ、誰かに頼る術を知らない人だった。自分のことで精一杯で、小さな命を抱えながらも、どうしていいか分からないまま日々をやり過ごしていた。
アパートの一室。カーテンが昼間も閉まっていることが多かった。
冷蔵庫にあるものを食べ、なければ食べなかった。
泣いてもすぐに抱き上げてもらえないことに、そらはいつしか慣れた。
泣くことをやめたのは、二歳になる前だったと、後に担当のケースワーカーが記録に残している。
四歳のとき、近所の住人からの通報をきっかけに、そらは一時保護された。
母親は施設への入所に同意したが、面会には一度も来なかった。
児童養護施設での生活は、悪いものではなかった。
ご飯は毎日あった。清潔な服を着ることができた。
職員の人たちは忙しそうだったけれど、そらのことを嫌いではなさそうだった。
ただ、ここも「自分の場所」だという感覚は、なかなか持てなかった。
部屋には自分のロッカーがあって、なかに小さなぬいぐるみをひとつだけ入れていた。
水色のクマで、名前はつけていなかった。名前をつけると、離れるときに悲しくなる気がしたから。
そらが里親家庭に移ったのは、小学二年生になった年の秋だった。
初日、玄関のドアを開けた瞬間、知らないにおいがした。
掃除の洗剤と、夕飯の匂いと、誰かの生活のにおい。
「いらっしゃい」と言われたとき、なんと返していいか分からなくて、そらはただ頷いた。
夜になると、怖かった。
暗さが怖いのではない。静かすぎることが、怖かった。
施設では誰かが必ずそこにいて、廊下から物音がした。
ここの夜は、しんとしている。その静けさのなかで、自分がどこにいるのか分からなくなる感覚があった。
布団の中で、水色のクマをぎゅっと握った。
泣かなかった。泣き方を、よく知らなかったから。
学校で、給食のおかわりじゃんけんに勝った日のことだった。
いつもなら黙って鞄を置いて、部屋に行くだけだったのに、そらはなぜかその話をしたくなった。
台所に立っているうしろ姿に向かって、「あのさ」と声をかけた。
「今日、じゃんけんで勝って、コロッケもう一個食べた」
振り向いた顔が、なんだかとても嬉しそうだった。
それが不思議だった。たったそれだけの話なのに、あんなに嬉しそうにするなんて、と。
その夜は、すこし早く眠れた気がした。
人の顔色を読む力が、人よりずっと早く育っていた。
大人が疲れているときや、困っているときが、表情を見ただけで分かった。
だから余計なことを言わないようにしていた。心配させないようにしていた。
それは身を守るために覚えたことだったけれど、
その家で過ごすうちに、すこしずつ、その必要がないときもあるのかもしれないと思い始めていた。
そらが家を出た朝、空は曇っていた。
玄関でちゃんとお礼を言おうと思っていたのに、いざとなると言葉が出てこなかった。
かわりに、「またご飯食べに来てもいいですか」とだけ聞いた。
「もちろん」という答えが返ってきた。
車に乗り込んでから、窓の外を一度だけ振り返った。
手を振る姿が見えた。そらも、小さく手を振った。
水色のクマは、リュックの中に入っていた。
旅立ちのとき初めて、そらはそのクマに名前をつけようと思った。
どんな名前にしようか、車の中でずっと考えていた。
そらはまだ、答えを出していない。それでいいと、思っている。
大切なものを壊し、泣き叫んで暴れたあの数ヶ月。追い詰められて夫婦で泣いた夜もあった。
担当の職員さんから聞いた話は、断片的だった。それでも、つなぎ合わせていくうちに、一つの輪郭が見えてきた。
その子の父親は、仕事が長続きしない人だったらしい。悪意のある人ではなかったと聞いている。
ただ、思い通りにならないことがあると、感情の制御が利かなくなった。怒鳴り声が家の中に響くことが、日常だった。
母親は止めようとしていた。でも母親自身も、夫の顔色をうかがいながら生活していた。
子どもを守りたい気持ちはあっても、自分を守ることで精一杯だったのだと思う。
そういう家の中で、その子は「問題を起こさないこと」を覚えた。
泣かない。要求しない。怒らない。感情を出すことが、家の空気を壊すと知っていたから。
それは六年かけて体に染み込んだ習慣だった。
その話を聞いたとき、家に来た最初の頃のことを思い返した。
わがままを一切言わなかった理由が、ようやく分かった気がした。あれは「良い子」なのではなかった。感情を出すことが、ずっと許されてこなかったのだ。
静かすぎることを不思議に思っていた自分が、少し恥ずかしかった。
そして同時に、試し行動が始まったあの時期のことも、違って見えてきた。
大切なものを壊し、泣き叫んで暴れたあの数ヶ月。追い詰められて夫婦で泣いた夜もあった。
でも今は思う。あれはきっと、初めて感情を出せた時間だったのかもしれない、と。
怒っても、ここは壊れない。そう確かめていたのかもしれない。
そう考えると、あの苦しかった夜々の意味が、すこし変わって見える。
ただ、愛することと、育てることは、必ずしも同じではない。
担当の職員さんから少しずつ聞いた話を、私なりにつなぎ合わせると、こういうことだった。
この子の母親は、子どもをとても愛していた。それは本当のことだと思う。ただ、愛することと、育てることは、必ずしも同じではない。
母親自身が、幼いころに安定した家庭を持てなかった人だった。愛の受け取り方も、渡し方も、誰かに教えてもらえないまま大人になった。
だからこの子への愛情は本物でも、それがどういう形で子どもに届くのかは、日によって、気分によって、大きく違った。
機嫌のいい日は抱きしめてくれた。そうでない日は存在ごと無視された。どちらが来るかは、朝起きるまでわからなかった。
この子はそのうち、母親の表情を読むことを覚えた。ドアの開き方、台所から聞こえる音、廊下の足音のリズム。
それらを瞬時に分析して、今日の母親がどちらのモードなのかを判断した。
機嫌がいいと分かれば、愛想よく振る舞った。そうでないと分かれば、気配を消した。七年間で磨き上げられた、サバイバルの技術だった。
記録の中に、母親が残した言葉があった。
「この子には笑っていてほしい。それだけが、私の願いです」
その言葉を読んだとき、最初に感じたのは怒りではなかった。
胸が痛かった。母親もきっと、誰かにそう願ってもらえなかった人だったのだと思った。
そして同時に、この子が初日の玄関で見せたあの整いすぎた笑顔の意味を、ようやく理解した。
あの笑顔は、恐怖から身を守るために覚えたものだったかもしれない。でもそれはきっと、母親の願いに応えようとしてきた証でもあった。
どちらも本当のことだと思う。そしてどちらも、子どもが背負うには重すぎるものだった。
一時保護所から児童養護施設へ。みなとはそこで約一年を過ごした。
みなとが生まれたのは、大阪の下町に近いアパートだった。
築三十年を超えた建物で、廊下の端に他の部屋の自転車が積み重なっていた。
母親は当時二十代の半ば。若くして産んだことを後悔している様子はなかったが、どこか生活に疲れているような顔をしていた、と後にみなとは思い返す。
正確には、「思い返そうとしても、顔があまり浮かばない」のだけれど。父親のことは知らない。名前も、どんな人かも。
それを「かわいそう」だと感じたのは、ずっと後のことだ。小さな頃は、それが当たり前だったから。
みなとは、物心ついたときから声を出すことが少なかった。
泣いても誰も来ないことが多かったし、笑っても誰かが一緒に笑ってくれるとは限らなかった。
だから声を出すことのコスト計算が、幼いながらに体に刷り込まれていた。声を出す。誰かが反応する。
その二つが結びつかないまま育ったこどもは、言葉を道具として使うことを覚える前に、沈黙を選ぶことを覚える。
みなとがそうだった。保育園の先生は「おとなしい子」と言った。
それは間違ってはいなかったが、正確でもなかった。おとなしいのではなく、ただ、言葉を出すべき場所がどこなのか、まだ見つけられていなかっただけだ。
小学校に入ってしばらく経ったころ、担任の先生が気づいた。
お弁当を持ってこない日が続いていること。冬なのに上着が薄いこと。授業中、昼を過ぎると集中できなくなること。
先生が声をかけると、みなとは「大丈夫です」と言った。その返事があまりにも整いすぎていて、先生はかえって心配になったという。
一時保護は、その年の初夏に行われた。
母親は抵抗しなかった。疲れていたのか、それとも別の事情があったのか、みなとには分からなかった。
「また迎えに来る」という言葉が最後だった。みなとはそれを信じることも、疑うことも、しばらくはできないでいた。
一時保護所から児童養護施設へ。みなとはそこで約一年を過ごした。
施設の生活は、思ったよりも規則正しかった。起きる時間、ご飯の時間、寝る時間。
それまでの生活にはなかったリズムが、最初は不思議で、やがて少し安心するものに変わっていった。
自分のロッカーがあった。鍵がついていた。それだけのことが、なぜかとても大事に感じた。
友達と呼べる子が一人できた。同じ年の女の子で、よく折り紙を一緒に折った。
会話は少なかったけれど、並んで折り紙をしている時間は嫌いじゃなかった。
その子がある日、別の家に移っていった。みなとは泣かなかった。泣くのが正しいのかどうか、分からなかった。
里親家庭への委託が決まったのは、小学二年生になった秋のことだった。
担当の人から「新しいおうちに行く」と説明を受けたとき、みなとは「どのくらい居るんですか」と聞いた。
大人は少し間を置いてから、「しばらくの予定です」と答えた。
その「しばらく」が何日なのか何年なのか、みなとには分からなかった。
でも聞き返さなかった。聞き返しても、きっと正確な答えは返ってこないと知っていたから。
新しい家の玄関に立ったとき、石鹸と夕飯の匂いがした。
知らない匂いだった。でも不快ではなかった。「いらっしゃい」と言われて、みなとは小さく頭を下げた。
なんと返すのが正しいのか分からなかったから、頭を下げることにした。
食事のとき、みなとはいつも少ししかよそわなかった。お腹が空いていないわけではなかった。
ただ、たくさん取ることで何かが変わってしまうような気がして、いつも控えめにしていた。
「もっと食べていいよ」と言われるたびに、どう反応すればいいか分からなかった。
「ありがとうございます」と言って、それでも少ししか取らなかった。里親の人たちは何も言わなくなった。
怒っているのかと思ったが、違った。ただ待っていてくれていた、と後になって気づく。
夜になると、眠れなかった。暗い天井を見ていると、いろいろなことを考えた。
母親のこと。施設のロッカーに置いてきたもの。折り紙をよく一緒に作っていた子が、今どこにいるのか。
「大丈夫?」と声をかけられると、みなとは「大丈夫です」と答えた。それ以外の答え方を知らなかったから。
ある夜、隣に座ってただ黙っていてくれる人がいた。何も聞かなかった。何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
みなとはその夜も「大丈夫です」と言ったけれど、その言葉の意味が、少しだけ変わっていた気がした。
休み時間に、クラスの子たちと外で遊んだ。ドッジボールで、みなとは最後の一人まで残った。
それが嬉しかった。それだけのことだったけれど、帰り道ずっとそのことを考えていた。
夕食の準備をしている背中に向かって、みなとは声をかけた。「あのさ」と言ってから、少し間があった。
「今日、ドッジボールで最後まで残った」
振り向いた顔が、ぱっと明るくなった。「すごいじゃない!」という言葉が返ってきた。
それだけのことだった。でも、みなとはその夜、いつもより早く眠れた。
見た目よりずっと多くのことを、みなとは考えていた。誰かが疲れているとき、怒っているとき、悲しんでいるとき。
それが表情のわずかな変化から分かった。だから先回りして「大丈夫です」と言い、余計なことを話さないようにしてきた。
でも里親の家で過ごすうちに、少しずつ気づいていった。ここでは、自分が話したことで誰かが疲れるわけじゃないかもしれない。
「大丈夫じゃない」と言っても、消えてしまうわけじゃないかもしれない。
それはゆっくりと、気づくか気づかないかの速さで、みなとの中に積もっていった。
みなとが次の場所へ移る日、空は晴れていた。荷物をまとめるとき、折り紙で折った小さなツルが棚に残っているのに気づいた。
施設にいたころから折り方だけ覚えていて、この家でも何度か折った。置いていこうか迷ったけれど、やっぱり持っていくことにした。
玄関で、言おうと思っていた言葉がうまく出てこなかった。「お世話になりました」は言えた。
もう一つ言いたかった言葉は、のどの奥で止まった。車が走り出してから、みなとは窓の外を見た。
家が小さくなっていく。「また来てもいいですか」と聞けばよかった、と気づいたのは、もう曲がり角を過ぎたあとだった。
でも、聞けなかったことが悔しかったということは、つまりそういうことだと、みなとは思った。
雨の日には、あの家の石鹸の匂いを思い出す気がする。まだそこにいるのかどうか、みなとには分からない。
でも、あの匂いはきっと覚えていられると思っている。